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アーサー・H・マッカラムは、アメリカ海軍情報部の極東課長でした。マッカラムは、1898年に、キリスト教の宣教師を両親として長崎で生まれ、少年時代を日本で過ごしました。このため、英語よりも先に日本語を自然に身につけたのです。
父の死後、家族はアラバマ州に帰りましたが、18歳で海軍兵学校に入り、卒業後の22歳の時に、海軍少尉として駐日アメリカ大使館付駐在武官として、再び日本に戻ったのです。1923年には、当時流行っていた最新のダンス「チャールストン」を、アメリカ大使館で、皇太子時代の裕仁親王に教えたこともあったのです。
同年の9月に発生した関東大震災の折には、米海軍による救援活動の調整にあたったりもしました。しかし運命とは数奇なもので、1940年に少佐となったマッカラムは、ヨーロッパを脅かすドイツ軍に対抗してイギリス軍を支援する為に第一次世界大戦後に内向きとなっていた米軍の世論を、戦争へと向かわせる計画を極秘任務とするようになります。
1940年の夏に、アメリカで世論調査が行われました。その結果を見ると、アメリカ国民の大多数は、アメリカがヨーロッパの戦争に巻き込まれることを、望んでいませんでした。第一次大戦で多数のアメリカ国民が犠牲となったことによる厭戦気分が、アメリカを覆っていたのです。
外国の戦争に、アメリカが参戦する必要はない、というのがアメリカ国民の世論だったのです。しかし、ルーズベルト政権下の陸海軍省と国務省の指導者は、ナチス・ドイツがヨーロッパ戦線で勝利を収めれば、それはアメリカの安全保障の脅威になるとの見解で、意見が一致していました。
マッカラム少佐は、「F2」のコードネームを与えられ、日本の軍事外交戦略に関する諜報報告、傍受された暗号の解読情報を監督し、ルーズベルト大統領に提供することを、日常の任務としました。
ホワイトハウスから、わずか四ブロックしか離れていないワシントン北西部、コンスティテューション通りと十八番街の角にある海軍作戦本部の中に、「US」と名づけられた海軍の無線傍受暗号解読センターがあります。そこがマッカラムのオフィスだったのです。
.. 2022年10月10日 07:25 No.2592001
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