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1899年2月、アメリカは意図的に独立派と戦闘状態に入り、なんとアメリカ本土から8万の陸軍部隊を投入して独立軍の殲滅にかかりました。8万の部隊を指揮したのはアーサー・マッカーサーです。副官は、アーサーの息子で後に連合国軍最高司令官として日本占領にあたったダグラス・マッカーサーでした。
たちまちフィリピン・ルソン島全域は、アメリカ軍に制圧さ独立軍はゲリラ戦で対抗するしかなくなりました。マロロス共和国のマリヤノ・ポンセ外相は、日本のアジア主義者宮崎滔天と知遇を得ていました。そこでリカルテ将軍は、ポンセ外相を日本に潜入させた。
宮崎滔天は、頭山満、犬養毅などと計らい、犬養から参謀総長川上操六に話をもちかけました。アジア諸国の独立運動に理解と同情を示していた川上参謀総長は快諾しました。アメリカ国務省は日本外務省に、フィリピンへの武器密輸を取り締まるよう要請していた。
青木周蔵外相は、フィリピンへの武器供与に猛反対だったのですが、川上参謀総長は、陸軍造兵局から大量の武器を大倉組に払い下げました。大倉組は、それをドイツの商社に売り渡したことにして、フィリピン独立軍へ供与する算段だったのです。
五百トンの石炭と三百トンの武器弾薬は、上海に送る石炭と鉄道の枕木に偽装し、三井物産の布引丸に積載され、1899年2月に長崎港を発ったのです。ところが、出航2日後に上海沖で大嵐に見舞われ、7月21日に沈没してしまいました。
武器を得られなかったリカルテ将軍は、蛮刀で武装した特殊部隊でアメリカ軍に切り込みをかけたものの、武運拙く囚われの身となったのです。リカルテ将軍と同志九十名は軍事裁判にかけられ、グアム島へ流刑にされました。灼熱の下でコレラ、マラリアに侵され、3年で3分の2ほどが死亡しました。
一方のアギナルド大統領は、裁判にはかけられましたが、アメリカから「アメリカに忠誠を誓うなら釈放し、邸宅と年金を支給する」とのオファーを受け、司法取引に応じました。一方のリカルテは、アメリカに服従しません。そこでフィリピン米国政府は、リカルテを香港に追放しました。
.. 2022年10月06日 08:26 No.2588001
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