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■--満州事変と東京裁判
++ 伝六 (大学院生)…112回          

東京裁判の判決では、日本近代の動きを侵略政策と評価?したものであるから、満州事変はその一環であると当然判定したであろう。ここに注目すべきことは、訴因18の1931年9月18日中華民国に対する満洲事変の開始 の件で訴追された者達で、この件で有罪になった者は一人もいないということである。すなわち満州事変の開始ということ自体は、東京裁判でも有罪と判決しなかったのである。この件で起訴された人は、荒木、土肥原、橋本、平沼、板垣、小磯、南、重光、東条、梅津であるが、この件ではすべて無罪でさる。
.. 2011年01月15日 12:23   No.242001

++ タク (社長)…336回       
それは、、「満州事変の根源は、日本の戦争責任を日清、日露戦争までさかのぼって調べる」と言うと、石原莞爾は次のように言ったことカモ知れません。「それではペリーを呼んで来い、日本は当時徳川鎖国時代で、どこの国とも付き合いたくないと言って、堅く外交通商の門戸を閉ざしていた。それを米国からペリーが黒船でやってきて、門戸開放、通商交易を迫った。もし実行しなければ、大砲をぶっ放すと脅迫した。徳川政権は、結局米国の脅迫外交に屈して開国を決定し、列国と外交通商関係を結んだ。外国と付き合ってみると例外なく侵略主義の恐ろしい国だということを知らされた。それから貴国らを大先生として、日本は泥棒のような侵略主義を習い覚えたのだ。いわば貴国らの弟子である。もし日清、日露戦争が悪いというならばペリーを証人としてあの世から連れてくるのだな」と帝国主義の歴史をユーモアなど交えながら語り、米国への批判を行なったのです。短い言葉で、よく本質をとらえています。

昭和22年酒田市において石原莞爾の訊問が行われる事となりました。なぜ極東軍事裁判が、酒田市において行なわれたかというと、石原莞爾を東京で訊問すれば、東京裁判と連合軍側の権威の失墜を招くことを恐れがあったと思うと酒田法廷に出廷する石原莞爾をリヤカーで駅まで曳いた側近である私の父が当時の状況をこう語っているのです。歴史の本質的な部分を洞察していて興味深いところです。

.. 2011年01月21日 10:35   No.242002


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