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■--戦犯裁判と戦陣訓
++ 伝六 (小学校中学年)…18回          

国際法における戦争犯罪は、どういうことが戦争犯罪になるかということについて、ハーグ陸戦条約とジュネーブ条約があります。ハーグのほうは条約を批准したけれど、ジュネーブ条約のほうは批准をしなかった。批准はしなかったけれど、準用すると言明しています。実際、大体においてクソ正直なくらい準用したようです。何故批准しなかったかというと、日本軍は無投降主義です。「生きて虜囚の辱めを受けず、」だから、日本兵が俘虜になるのは例外です。敵国は俘虜のめんどうをみなくていいから助かるわけです。敵兵が散々爆撃して降参してきたら、俘虜の待遇をするとなると、敵は安心して攻撃をしてくるので、片務的とりきめは不利になるということで批准しなかったようです。戦陣訓の内容はわるくないかもしれない。しかし、このため、日本軍が批准しなかったのは、虐待の魂胆があったのではないかと、いちゃもんをつけられる種になります。蛇足の戦陣訓をつくったのは、東条大将でないかもしれないけれど、責任は彼にあります。また「死して虜囚の辱めを受けず」は大将等、頭目、英雄が言うのならいいけれど、そうでない人間がモットーとするには無理がある。偽善?のようなものでしょう。このことについては河野信さんが書いておられますが。軍部の指導者の、世界の中での世間知らずのように思えます。後になると、ふつう人でもわかることです。先覚はえらいですね。
.. 2006年09月22日 21:45   No.24001

++ 伝六 (小学校中学年)…19回       
訂正します。「死して虜囚の・・・」は「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」です。また蛇足の戦陣訓と書いたのは、軍人勅諭があるのに、蛇足の戦陣訓を与えたという意味で書きました。正式の俘虜に対しては気を配っていますが、単に降参した敵兵なら殺した例が実際にあった可能性が高い。空爆して一般人民を殺害するのは当時も国際法違反で、そんな奴には殺害でもって報いてもかまわないという考えがあったようです。連合国得意?のリベンジ?の考え方は日本にも素朴?な形であったようです。ただし、これは戦陣訓とは関係ありません。
.. 2006年09月23日 22:19   No.24002
++ タク (中学生)…33回       
1942年、フィリピン・ルソン島のバターン半島に立て篭もっていたアメリカ・フィリピン軍が降伏したとき、日本軍は降参した捕虜7万余人を、炎天下の中、十分な水も食糧も与えずに、収容所まで徒歩で移動させ多くの死者がでました。アメリカはこれを国際法違反の残虐な「死の後進」と非難して、戦後、日本の最高指揮官だった第十四軍司令官本間雅晴中将、輸送作戦を指揮した河根良賢少称、平野庫太郎大佐を死刑に処したのです。

捕虜の移送は50キロ徒歩で列車が走っているサンフェルナンドに向かい、そこからカパスというところまで40キロの距離を列車で移動して、オドンネル収容所まで13キロをまた徒歩で向かうというものです。この間、栄養失調、マラリヤ、赤痢などによる衰弱、炎天下の長期間歩行による疲労などが原因で、アメリカ兵では約600人、フィリピン兵では約10000人が死亡しました。また、収容所でもアメリカ兵約1600人、フィリピン兵役16000人の死者が発生しました。

だが、この移送で多くの死者が発生したのは、日本軍が意図的・計画的な行為や怠慢によるものだとアメリカは指摘しましたが実はそうではなかったのです。捕虜をバターン半島にそのまま放置していたら捕虜も砲撃による被害や食糧も不足しており、この地域では元々マラリヤが多発していたから、もっと大勢の死者が発生したことは間違いありませんので、捕虜を移送したのは適切な措置だったのです。しかも悪いことに長く抵抗すると見られていた敵軍がわずか1週間で降伏してしまい、予想をはるかに上回る民間人が投降して来たので、捕虜の扱いは困難を極めたのです。

フィリピン占領後も、治安の乱れや交通の混乱などにより、食糧輸送はうまくいかずにその結果、肉、野菜、水の不足は深刻な問題で、栄養面で大きな影響を及ぼしたが、行進中は日本兵も捕虜と同じ食事をしていたのです。
また、医薬品、特にマラリヤを治療する薬は少なく、日本兵自体にも多数のマラリヤ患者が発生していたのです。日本軍は徒歩移動が当たり前ですが、アメリカ・フィリピン軍では車両移動が当たり前だったため、徒歩行進によって受けた苦痛は日本側にはわからないことでした。また、日本軍から支給される味噌汁や牛蒡を木の根っこだと食べない捕虜もおり、栄養失調で倒れる原因となったと言います。しかも、投降してきた多くの人々は既に栄養不良状態であり、マラリヤ、赤痢に感染していたというのです。

ただ、日本軍の捕虜に対する扱いは過酷なものだったのは確かだと思います。待遇を要求する捕虜に、「捕虜のくせに生意気だ」、栄養失調、病気のために行進に遅れる者達にも、「怠けるな」と殴打したという証言があります。だが、このような行為も、命令により組織的に行なわれたものではなく戦争に於いて、最善と信じて行なわれた行為が悲惨な結果をもたらしてしまったのも事実なのです。

.. 2006年09月25日 18:12   No.24003
++ 伝 (小学校低学年)…8回       
戦犯問題とは関係ないのですが、戦陣訓に関連して書きます。森崎湊という青年は「東条英機は出世主義者であり、落語家である。あいつが十四や十五の遊び盛りの少年を殺すのだ」と言って憤激していたそうです。どこまであたっているかしれませんが、十四や十五の少年が特攻隊で出撃しました。戦陣訓も影響を与えたかもしれません。しかし、出世主義者は今もごまんといるので、東条批判ではなく、出世主義の盲点への警告としたほうがよいと思います。
.. 2006年09月25日 21:00   No.24004
++ タク (中学生)…34回       
フィリピン沖のアメリカ艦隊に突入した特攻隊員が出撃直前に残した最後の肉声が公開されした。当時の新聞で、特攻隊隊長の遠藤栄中尉(当時二十二歳)は「どうぞ、皆様お体大切に。銃後の守りをよろしくお願いします。ただ今より出発します。ごきげんよう。さようなら」と語っています。NHKでは、この録音盤を番組「遺された声―――ラジオが伝えた太平洋戦争」を、放送していますね。


.. 2006年09月26日 08:11   No.24005


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