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■--マーク・ゲインのニッポン日記
++ 仲條拓躬 (社長)…630回          


以下は、マーク・ゲインの『ニッポン日記』から引用します。なお、以下の発言は、講和条約を結ぶ前の日本、つまりまだ交戦状況下での発言であることに留意する必要があります。「私が現役に止まっていたら、あなた方アメリカ人にもっと金を使わせたでしょう。戦線を縮小し、アメリカの補給路を延長させ、日華事変を解決すれば、もっとうまくやれたと思う」

「日本の指導者たちがミッドウェーでの敗戦の意義を理解し、ソロモン群島の防衛陣を強化していたら、太平洋の広さが日本に味方したにちがいない。山本五十六大将らは誤りをおかした。どこに根拠地を求めるか知らなかったからだ。サイパン失陥をきいたとき、私は敗戦を覚悟し、私は中国とは和平できたと思っている。」

「われわれは東亜連盟に非常に確信を持っていた。その精神を中国民衆に滲透させることさえできたら、戦いを終ることはできた。東亜連盟は終始非侵略主義だった。連盟は、中国が満州国を承認さえすれば、日本軍隊は中国から撤退しうると論じた。」

「蒋介石は相互に結末をつける段どりとなっていたら、満州国を承認しただろう。私は終始、中国本土から撤退し、満州国をソ連との緩衝地帯にせよとの意見だった。勿論われわれはソ連と戦う意志はなかった」

このあと、石原莞爾は、東條英機は無能な男と語ります。「対中国政策に関しては、東條と私との間に別に意見の相違はなかった。なぜなら東條という男は、およそプランなど立てうる男ではないからだ。彼は細かい事務的なことはよく出来る。」

「しかし中国政策というような大問題に関しては全く無能だ。彼は臆病者で、私を逮捕するだけの勇気もなかった。東條のような男やその一派が政権を握りえたという事実が、すでに日本没落の一因でもあった。東條は右翼の一部を除いては、誰からも支持されていなかった。東條を首相の位置につかせた連中は全然思想を持たなかった。ただ政治の波の頂に便乗したにすぎなかった」

東條に迫害され続けた東亜連盟会員とマッカーサーについても語っています。「不幸なことは、東亜連盟は貴国の命令で解散させられた。東條も連盟を弾圧しようと試みたが、連盟は朝鮮でも満州でも、また中国においても、力強い勢力を維持し続けたのだった。」
.. 2022年02月04日 05:41   No.2397001

++ 仲條拓躬 (社長)…631回       
「マッカーサーが東亜連盟を解散させたとき、われわれは日本の軍国主義者とアメリカの軍国主義者とは何の違いもないことを知った。東亜連盟こそは、共産主義思想と対等の条件で戦える唯一の組織だった」

「今日、われわれは集会を持つことも許されないし、私の同僚は終始監視下にある。私の妻が私に逢いにくるのにさえ、米軍当局の許可を得なければならない。私の手紙は検閲され、私の郷里あての東京からの手紙などは、最小限三ヵ月かかる。東條時代も郵便は厳重に検閲されていたが、それでも一週間以内には届いたものだ」

「私の参謀本部時代、秩父宮(天皇の弟)が私の部下であらせられた。殿下こそは陛下と国民を呼びつけ、戦争を避けることができた唯一人の方であった。殿下は日華事変開始に反対された。不幸なことに、事変勃発当時、殿下は欧州におられ、何もなさることができなかった。」

「近衛公の回顧録をお読みになったのなら、1941年の9月から12月にかけて行われた会議のことをご記憶でしょう。当時の会議で、日華事変を惹き起した陸軍の一派は、より大規模な戦争に訴えることなしには事変の解決はできない、という考え方を使眺した。この一派は驚くべく墜落した卑怯者だった。私も勇敢な男じゃないが、秩父宮殿下のご支持さえあったら、私は戦争を回避させることができたと思う」

「私は今55だ。私は鶴岡の貧乏侍の家に生れたが、鶴岡というところには金持ちは殆どおらぬ。金を持っているのはたいがい地主か商売屋だ。私の父は軍人で、私を軍人に育て上げてくれた」

.. 2022年02月04日 05:51   No.2397002
++ タク (社長)…2321回       
防災についてのBCP
昨今、SNSや新聞、テレビのニュースなどで、自然災害の情報を目にすることが増えてきたように思えます。それを受けて、防災についての意識は年々高まりつつあるのではないでしょうか。

しかし、防災の知識を身につけることと実際に災害が起きた時に行動できるかとは同じとは限りません。具体的な計画を家庭や企業内で共有し、実践してみる機会を設けることで、真の効果を発揮させることが可能となります。

さて、BCPという言葉はご存じでしょうが、BCPとは(Business Continuity Planning)の略で、災害、テロ、システム障害などの緊急事態における企業の事業継続計画のことを指します。最近では、企業内で新型コロナウイルスの感染がおきた際にも、リスクマネジメントの手段として有効活用されています。

計画を立てる目的は、緊急事態に遭遇した際、企業の損害を最小限にして、重要な業務を継続して早期復旧することにあります。早期復旧は、荷主からの信頼を獲得することにも繋がります。その結果、今後の事業拡大にも期待できる可能性が高まります。

BCPの特徴としては次の点があります。優先して継続・復旧すべき中核事業を特定する。緊急時における中核事業の目標復旧時間を定めておく。緊急時に提供できるサービスのレベルについて顧客と予め協議しておく。事業拠点や生産設備、仕入品調達等の代替策を用意しておく。全ての従業員と事業継続についてコミュニケーションを図っておく。

また、BCPは策定しただけで完了するものではありません。策定しても、従業員に周知されていない、策定してから時間が経過したことにより、内容が現状と合っていない、といった不具合も想定されますので、月に一度は安全会議なので意識を高めせれればと思います。

.. 2022年02月06日 08:42   No.2397003
++ タク (社長)…2322回       
欧米とアジアとの外交
1871年、明治政府は江戸幕府が幕末にむすんだ日本にとって不平等な条約を改正することや、欧米の文明を視察する目的で使節団(岩倉使節団)を欧米に派遣しました。そして、岩倉具視が代表となり、木戸孝允や大久保利通、伊藤博文など政府の有力者約50名がアメリカ、ヨーロッパ各国をまわりました。

しかし、日本は法律が整備されていないなどの理由で、条約改正は達成できませんでした。使節団には留学生も多く同行し、津田梅子ら、日本ではじめての女子留学生も同行しました。明治政府は近隣の国々に開国を求め、国交をむすぼうとしていました。

1871年、清とは対等な立場での日清修好条規を結びました。また、岩倉使節団が欧米を訪問している間、政府の代表となっていた西郷隆盛は板垣退助と協力し、欧米に対して鎖国をしていた朝鮮を開国させようとする征韓論を主張し、使節の派遣を決定させました。

しかし、欧米から帰国して、国力を増強させるために国内の整備を優先しなくてはならないと実感した岩倉具視や大久保利通は、朝鮮への使節の派遣を中止し、征韓論をおさえました。その為、1873年、西郷、板垣らは政府を去ることになりました(明治6年の政変)。

そののち、政府は国内の整備をすすめつつも朝鮮との交渉をすすめ、1876年には朝鮮にとって不平等な日朝修好条規をむすび、朝鮮を開国させます。また、政府は近代国家として日本の国境をしっかり定める必要があると考え、ロシアとの間で領有が不明だった樺太(サハリン)をロシア領として、千島列島を日本領土にする樺太・千島交換条約をむすびました。ほかにも、1876年、小笠原諸島を日本の領土としました。

.. 2022年02月07日 07:18   No.2397004
++ 仲條拓躬 (社長)…632回       
二・二六事件の顛末

二・二六事件ですが、士官学校事件に関連してすでに免官となっていた村中孝次、磯部浅一らを中心とする皇道派の青年将校41名、民間側北一輝ほか13名が企図したものです。その決起の目的は要約すると、つぎの四項目になるようです。

軍上層部の腐敗は軍閥を生み、互いに相争う。天皇の大権を重臣や軍閥が私議する。政党は党利、党略をこととする。全国農漁村などから兵士を預かるわれわれ将校として、疲弊した農村で飢えのため、兵の姉や妹が女郎などに売られて行く実情を見るに忍びず、これら兵に対し、後顧の憂いなく国家のため死ねとはいえない。

責任は重臣であり、政党であり、財閥であり、軍閥である。これら君側の奸を絶滅することがわれわれの使命であり、われわれ軍人による独裁を考えるものではなく、事件を起こして政権を奪うごときファシズムは絶対に排撃するところである。

彼らの思考はいかにも青年らしい純粋なものでありますが、その行動が殺人というのでは、短絡的といわざるを得ないのです。これに参加したのは在京部隊将兵千四百数十名で、昭和11年2月26日の払暁、政界首脳の各邸、警視庁、朝日新聞社などを襲い、陸軍省や参謀本部付近を占拠、皇道派に関係ある将校以外は入門を阻止し、反対派の主なものを射殺する計画だったらしいです。

被害者は、岡田啓介首相の身代わりとして義弟が殺害されました。そのほか斎藤実内大臣、高橋是清蔵相、教育総監渡辺錠太郎大将をそれぞれ殺害、鈴木貫太郎侍従長に瀕死の重傷を負わせました。そのほか牧野伸顕元内大臣、西園寺公望元老邸も襲いましたが、難を逃れました。

いずれにしても、これだけの犠牲者が出たのであるから、国民に物凄いショックをあたえ、その成り行きは全世界の注目を浴びました。石原莞爾は軍閥の圏外にあったのですが、反乱に対して強硬意見をもっていたため射殺の対象になっていたのです。石原莞爾を殺そうなどと考えるあたり、青年の思考に限界があることを如実に物語っています。

2月26日の雪の朝は、軍中枢に属する将校は出勤を反乱軍に阻止され、また説得に当たるベき軍首脳部将校でも、反乱軍の阻止で引き返す有様でした。ところが、石原莞爾はいつものように悠然と出勤しましたが、途中で兵隊に銃をかまえさせた安藤輝三大尉に出会ったのです。

.. 2022年02月08日 08:54   No.2397005
++ 仲條拓躬 (社長)…633回       
この安藤大尉は反乱軍の首謀者である、としてのち軍法会議で死刑を宣告されたのですが、その安藤大尉は、「大佐殿、今日はこのままお帰りいただきたい」といった。石原は、「何を言うか。陛下の軍隊を私するとは何事ぞ。不届き千万である。この石原を殺したかったら、臆病な真似をするな。兵の手を借りて人殺しをするなど、見下げ果てた男だ。貴様ら、直接、自分が殺ろうとなぜしないんだ。その銃を自分で握れ」

ものすごい剣幕で怒鳴りつけ、悠々と通り抜けた。阻止する者はいない。石原莞爾は参謀本部の課長室に入ったが、石原莞爾を殺害するため、そっと後からついて来た山本少尉は、あまりにも堂々としている石原莞爾の態度に心打たれ、丁重に敬礼して、そのまま立ち去ったのです。

石原莞爾とは対照的な事件がありました。満州事変当時、石原莞爾とともに関東軍の参謀であった片倉衷少佐は、陸軍大臣官邸に入ると、磯部と称する将校にピストルで頭部を撃たれました。しかし、奇蹟的に死はまぬがれた。

反乱軍の首謀者である香田清貞大尉ら三名は川島義之陸相に面接、決起趣意書を朗読し、要求事項を提示して、ただちに本事件をきっかけとして「昭和維新」を実現するよう迫ったのです。そして川島陸相に対し、すみやかに真崎甚三郎大将、山下奉文少将、古荘幹郎次官らを呼び、収拾策を検討するよう要望しました。

川島陸相はこれを承諾し、相談の結果、宮中に参内して天皇に奏上しました。このときすでに軍首脳、軍事参議官らが宮中に参内しており、真崎、荒木両大将も参内して決起将校の取り扱いにつき、硬軟両論に分かれて意見を吐露していました。

石原莞爾は杉山元参謀次長に随行し、この席にいたが、このような対立論争を聞いて黙っていられない。そこで石原莞爾は、大将連を相手に強硬意見を吐露しました。それに対し、真崎、荒木らは彼らを怒らせずに、原隊復帰をさとすべきであると主張した。東京警備司令官香椎浩平中将もそれに同調した。

結局は治安維持の点から戦時警備令を施行し、流血を避けて彼らを復帰させる方針に決定しました。石原莞爾はまもなく戒厳参謀兼任となり、事件の解決に日夜、奔走しました。反乱将校は軍法会議により裁かれて、昭和12年の7月と8月に22名が代々木刑場の露と消えたのです。

.. 2022年02月08日 09:08   No.2397006
++ 仲條拓躬 (社長)…634回       
石原莞爾の対米戦略論
石原莞爾は東條内閣の考えを酷評し、「対米英戦争は彼我対等の経済力、軍需生産をもってする戦いにあらず、東條らは敵の物質力の大なるを説き、生産競争に勝て、不可能を可能とせよなどと説くことは、激励の辞としては結構であるが、単なる物質の生産においては勝てないことは最初からわかっています。

それだから、勝敗決定の主要因子を、兵器その他戦争手段の生産力の上に求めることは不可能である。しかし、敵の戦力を制約減殺せしめて戦果をあげるには、若干の隘路もしくは弱点がある。アメリカの戦力は、この隘路を経て戦場に出現せざるを得ないのだから、その力は本国におけるものに比し、いちじるしく弱化せざるを得ない。

経済力において劣れる日本は、戦略的に有利なる態勢をもって、その弱点を攻撃することである。かかる戦法においては敵の弱点の考究が重要であると同時に、わが戦略態勢、とくに戦いの条件、作戦法、戦う人の優位、特定兵器、その他の戦争手段の一定量と、その質の優位、国民性の優越などに依存するということである。

軍当局は、太平洋戦争に準備された緒戦の作戦計画を遂行し終わった今日、すみかに次の戦争計画を樹立し、その計画目標に必要な生産増強の数量とその手段方法とを、成算ある態度をもって追求すべきである」と、戦争計画の樹立を説いたのですが、東條内閣は耳を傾けなかったのです。

昭和十七年六月、わが連合艦隊はミッドウェー島近くの洋上で米軍航空機の襲撃をうけ、航空母艦四隻が撃沈され、巡洋艦二隻も沈没あるいは大破。真珠湾、マレー沖海戦に成功したわが海軍は、聞くも無残な敗北を喫したのである。

八月には、ガダルカナル島のわが海軍陸戦隊が、航空基地の建設を終了すると同時にアメリカ海兵隊の攻撃をうけ、またたく間に占領されてしまった。人間にたとえるならば、瀕死の重傷というところであろう。

このとき、海軍大佐である高松宮に意見を求められた石原莞爾は、「戦争の勝敗は緒戦のときからわかっておりました。わが方の作戦はすべてに攻撃の終末点を越えています。戦力は根拠地と戦場との距離の二乗に反比例するのが原則であります。日本の本土では百の力でもガ島まで遠征すれば十から五の力しか残らない。

.. 2022年02月09日 05:37   No.2397007
++ 仲條拓躬 (社長)…635回       
ところが、敵は根拠地に近いから、わが軍より力の大きいのは当たり前であります。持久戦では、攻撃の終末点をどうするかが、最初から確立されていることが大切です。しかるに支那事変も今次の戦争も、まったくこれを考えておりません。

東條のやっている戦争はなにをやっているのかデタラメで、まるで決戦戦争のやり方であります。攻撃の終末線を越えれば叩かれるのは当然であり、負けることがわかっているところへ兵を送る馬鹿はありません」と述べ、さらに、

「近時の戦争では、制空権のないところに制海権はありません。制空権が敵に握られたからには、即刻ガダルカナル島を撤退すべきです。陸軍も同様であります。ソロモン、ビスマーク、ニューギニアの諸島を早急に手放すことであります。

そしてわが補給線確保上、攻撃の終末線を西はビルマ国境から、シンガポール、スマトラなどの戦略資源地帯を中心とし、この防衛線を堅固に構築し、中部は比島の線に退却せしめ、他方、本土周辺のサイパン、テニアン、グアムの南洋諸島一切を、難攻不落の要塞化することであります」と進言した。

しかし、陸軍はその後も石原戦略を黙殺して、ガダルカナルに歩兵三個大隊を送ってメチャメチにやられ、ついで一個旅団に相当する兵力を送ったが、これまたアメリカ軍にやられ、続いて、派遣した那須兵団もみじめな敗北を喫し、兵団長の那須弓雄少将は戦死した。

ガダルカナルの撤退は昭和十八年二月にようやく終了しましたが、その後、山本五十六大将が戦死し、海軍の作戦は航空戦に頼るしかなく、日本の敗色は日増しに濃くなっていったのでした。

.. 2022年02月09日 05:44   No.2397008
++ タク (社長)…2323回       
琉球・蝦夷地から沖縄・北海道へ
15世紀に成立した琉球王国は、江戸時代には薩摩藩に支配されていましたが、独立した王国でした。明治になると、政府は琉球を日本に組み込む為に、1872年、琉球藩を設置しました。

そして、1879年に政府は琉球の人びとの反対を無視して、武力をもって琉球藩を廃止して沖縄県としました。(琉球処分)。1900年代になると、琉球語を禁止して日本国民になるための教育などがおこなわれました。

明治政府から派遣された役人が、石垣島の高齢者に賞状をわたすようすです。日本の国境がかかげられ、沖縄が日本の一部に組み込まれたことや、当時の沖縄の人びとの服装、髪型がわかります。沖縄県になっても、しばらくは米やさとうなどを年貢として納めさせていました。

蝦夷地は江戸時代には松前藩がおかれましたが、幕府が管理できたのは南部のごくわずかな地域だけでした。明治政府はまず、蝦夷地を北海道とあらため、開拓の拠点として開拓使を設置しました。

そして、開拓と防備のために全国から士族出身の移住をすすめ、屯田兵として北海道各地に配備しました。先住民であるアイヌの人びとは、開拓によって住む場所が奪われました。また、日本人風の名前を名のらせ日本語を教えるなど、日本国民になるための教育がおこなわれました。

最初の屯田兵は、職をうしなった士族たちからあつめられました。しかし、時期がたつにつれて平民からもあつめられ、農地の開墾、鉄道や道路建設などがすすめられました。明治政府は1899年、アイヌの人びとをまもるという名目で北海道旧土人保護法をさだめました。

しかし、実際はアイヌの人びとの人権を無視する内容でした。同年、旧土人学校保護法によって、アイヌの人びとだけが通うアイヌの学校がつくられ、天皇への忠誠を柱とした教育がおこなわれました。

.. 2022年02月10日 05:45   No.2397009
++ 渡辺厚子 (幼稚園生)…1回       
「日の丸・君が代」強制と処分に対する是正勧告
 | 不起立の行為は市民的自由の権利−ILOとユネスコから公表
 └──── (元都立特別支援学校教員)

1.初めての是正勧告

 2019年春、「日の丸・君が代」強制と処分に対する是正勧告が、
ILOとユネスコから公表された。
 2014年、アイム’89東京教育労働者組合が「ILO/ユネスコ教職員
勧告適用合同専門家委員会」(CEART・セアート)へ申し立てた
成果である。
 国際機関から「日の丸・君が代」強制への是正勧告が出されたのは、
初めてのことである。

2.10・23通達下の教職員・子どもの権利侵害

 石原・横山体制によって2003年10月23日都立学校に出された通達は、
卒・入学式を一変させた。
 教職員は起立斉唱命令に従わなければ累積加重処分された。
 例外なく再雇用を拒否された。子ども達は、教員の起立を範として
起立斉唱を強いられ、拒否すれば管理職から恫喝された。
 障がい児学校における権利侵害は目に余った。

3.勧告内容

 セアートでは4年を費やし検討、2018年最終報告書を出した。
 要点は2つ。
 ◎不起立の行為は市民的自由の権利として認められる、
 ◎懲戒処分システムには同僚教員を関与させる、また障害を持った
子どもや教員らのニーズに合わせて式典要件を再検討するよう
勧告した。

 画期的内容であった。
 この最終報告書を受け、ILOとユネスコは、日本政府に勧告を
発した。

4.「日の丸・君が代」ILO/ユネスコ勧告実施市民会議結成

 私達は勧告を実現するために「市民会議」を立ち上げ地道に活動して
いる。文科省や都教委は責任逃れをしてらちが開かない。
 ブラックな教育現場において、天皇制ファシズム教育の先駆け「
日の丸・君が代」問題は古くて新しい。
 誰もが希望の持てる教育現場を目指して、7月24日午後、日比谷図書
文化館で集会を開く。ご参集を!

.. 2022年02月11日 07:49   No.2397010


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