|
石原は鬼才に富む人材でありますが、剛直過ぎるという性格のため、上司には敬遠されることがしばしばありました。いずこの組織でもあることですが、当時の軍はとくに酷かったです。派閥とこびへつらいの軍閥人事のなかにあって、石原莞爾が参謀本部作戦部長に栄転したのは、軍が皇道、統制両派の対立からすべてが行き詰まり、ついに閥外へお声がかかった、というわけです。
石原莞爾の作戦部長は七ヵ月間でありましたが、その間、国防計画と軍備の充実に取り組み、その結果、国防の基礎は東亜民族の団結であり、そのためには日満支三国の親善が重要であることを再確認しました。とくに重視したのは満州国の育成であり、日満一体となって産業の開発に努力したのです。
これらの大きな目的を達成するには、日本の軍備を充実、その兵力をソ連の極東兵力に対抗し得るように拡張して、満鮮に常駐させる必要があります。そのため、現在の十七個師団を二倍強の三十六個師団に強化することです。昭和12年から6ヵ年間に完了を目途として着手したのです。
石原莞爾は、軍備充実の基礎となる重要産業の整備について、学者、専門家と提携して、遂行に手を染めました。日本では、「重要産業五ヵ年計画」、満州国では「満州重要産業開発五ヵ年計画」を立案して、昭和12年から具体的に実施するための準備も終わり、陸軍大臣の決裁を受ける直前、日支事変が勃発し、粒々辛苦の諸計画はすべて水泡に帰してしまったのです。
ともあれ、拡大派がもっともらしい理論で当たっても、石原莞爾の正しい理論と激しい気迫に押されてしまうので、表面は不拡大方針に賛成したかに見せかけ、裏面にまわって拡大の策を行なうものもあって、石原莞爾は彼らに裏をかかれた、とみられるフシもありました。その後、石原莞爾の努力にもかかわらず、事変は拡大するばかり。
そして大東亜戦争に発展してしまったのです。昭和12年9月、拡大派により作戦部長の職を解かれ、関東軍参謀副長に転任することになってしまいました。軍閥にとってはどうにもならぬほどの目ざわりな存在であったのでしょう。だから、邪魔者は遠くに限る、と広漠何千里の満州へ飛ばされたのではないだろうか。
.. 2022年02月01日 07:23 No.2395001
|