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石原莞爾が、内閣の顧問、参与人事に着手。8月22日午後3時、石原莞爾は田村真作に付き添われて鶴岡駅を発ちました。列車は余目から最上川に沿って新庄に出ました。そこから山形、米沢を抜けて福島に出、上野には夜中に着きました。
そこから同志の大八車で渋谷へ行きました。政府は石原莞爾のため、新橋の第一ホテルを用意しました。しかし石原莞爾がホテルは嫌だと言って、渋谷にある同志の山内芳太郎宅に泊まりました。
ここには、ボディガード役として空手の達人でもある曹寧桂が隣室に泊まりました。曹は秘書役を兼ねていましたが、国士館出の一刀流の達人、照井欣平太と共に、石原莞爾を護衛した。翌23日、石原莞爾は首相官邸に東久邇宮首相を訪ねました。
すると東久邇首相は石原莞爾に内閣顧問就任を要請しました。しかし石原莞爾は、持病があり、また民間人として東亜連盟運動を続けたい、との理由で辞退したのです。そのかわり彼は、キリスト教社会運動家の賀川豊彦と朝日新聞社の鈴木文四郎を推薦した。
すると宮は「あなたは不忠の臣だ!」と、叱った。あの19年9月26日の言葉を、石原莞爾に返しています。石原莞爾と賀川豊彦との出会いは、大正九年、中支那派遣隊司令部付として中国の漢口に赴任した頃から始まります。
漢口の特務機関にいた石原莞爾は、賀川豊彦の講演を聞き、感銘を受けました。当時石原莞爾は新婚早々で、しかも日蓮の信仰者になって間もなく、宗教に興味を持っていた。賀川は、神戸で生れ、大正三年にアメリカに留学し、プリンストン大学で学んだ。帰国後キリスト教社会運動家、関西労働同盟会を結成するなど労働争議を指導した。
彼のキリスト教社会運動に感銘した石原莞爾は、二度講演を聞いています。その後も文通を続けました。石原莞爾が賀川を自分に代って内閣顧問に勧めたのは、彼がユダヤ人の救援運動家であったこと、日本の公正な世論をアメリカなどにアピールできる唯一の人物であることでした。
小柄で、いつもシワクチャの洋服を着、「富の統制、土地の再分配、封建制度の絶滅」を唱える一方で、天皇を中心とする国体論者であった賀川豊彦は、アメリカの記者マーク・ゲインのインタビューにこう語っています。
.. 2021年12月26日 07:38 No.2373001
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