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仇討の赤穂事件をおこした家老と言えば大石良雄で江戸時代前期の武士です。主君が江戸城内で吉良義央に切りつけた事件で、家のとり潰しにあったため浪人となり、その後、四十七士をまとめて、主君の敵かたきを打つ為に吉良邸に打ち入りました。
大石良雄は、播磨国(今の兵庫県)赤穂藩の家老の子にうまれ、内蔵助と呼ばれました。1701年、良雄の主君・浅野長矩が参勤交代で江戸にいたとき、事件がおこりました。吉良義央に恨みをもった浅野長矩が、江戸城内で義央に切りつけたのです。
すぐに取り押さえられたため、義央の命に別状はありませんでしたが、五代将軍・徳川綱吉は、長矩に対して激しく怒りました。そして長矩を切腹させ、赤穂藩の浅野家をとり潰しました。しかし義央には何のおとがめもありませんでした。
不満をもった家臣たちを説得した良雄は、浪人となって、浅野家再興をはかりました。しかし、浅野家再興の願いがかなえられないことがわかると、良雄は主君のあだうちを決心しました。1702年12月15日、良雄たち四十七士は吉良邸にうち入りました。
そして激しい戦いの末、義央をうち取りました。四十七士の行動は世間の評判となり、幕府の中でも意見が分かれましたが、結局、良雄ら全員が切腹を命じられました。この「赤穂事件」は歌舞伎などの題材になり、「忠臣蔵」として世に知られています。
.. 2021年12月12日 08:35 No.2362001
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