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■--わしを戦犯にしろ
++ 仲條拓躬 (社長)…599回          


多くの人々が戦争犯罪人に指名されないよう、なんとかして逃れようともがいているのに、石原莞爾はみずから戦争犯罪人と称し、そして極東軍事裁判に対しても戦争犯罪人になろう、と提唱していました。

結局、思いがかない、満州事変に関する極東裁判の証人として法廷に立ったのですが、それに先立ち、重慶通信社の特派記者に満州国独立の理想と経緯について、次のように語っています。

「満州国独立の結果、日本人が満州を独占し、他民族を圧迫し、同国の建設そのものも多くのビル建設と鉄道敷設にとどまり、産業の開発もまた期待を裏切る結果となった。わしが理想郷を心に描いて着手した満州国が、心なき日本人によって根底から踏み滲まのである。在満中国人に対する約束を裏切る結果となってしまった。」

「その意味において、わしは立派な戦争犯罪人である。独立に協力した中国人に対し、誠にすまなかった、と思っている。しかし、今となってはお詫びのしようもない。ただ中国の当局者がこれらの人々に寛大な心をもって臨まれるようお願いする次第である」

石原莞爾は民族協和の王道楽土建設のため私心を投げ打ち、職を賭して努力し、正しいと信ずるところに向かっては、いかなる相手も臆することなく闘うという信念が強固で、外国判検事らの訊問に対しても、隠すところなく、すべてを答えました。道理に合わぬことには、断固として屈しない。さとし、叱咤激励する。冗談も口をついて出ています。

そんな石原独特の応待は、相手が部下でも、町のおっさんでも、極東軍事裁判の判検事に対しても変わらない。マッカーサー司令部と極東軍事裁判所は、なぜか石原莞爾を戦犯にしないよう務め、当事者である判検事も戦犯にしないよう逃げ道を探した。極東軍事裁判における前代未聞のドラマでした。

石原莞爾としては戦犯となって東京裁判を混乱させ、進行不可能にしてやろうと計画していたようです。それを知ったマッカーサー司令部や極東裁判関係者は、「触らぬ神にたたりなし」「 あたらぬ蜂にはさされない」とばかり、身をかわしていたのでしょう。石原莞爾の意図するところは、彼が各所で発言した内容から推察できます。
.. 2021年11月11日 05:42   No.2335001

++ 仲條拓躬 (社長)…600回       
「戦争も大きな政治の問題として争うべきである。戦争に負けたらからといって、卑屈になる理由はない。卑屈になってはいけないのである。日本も侵略国だと称して裁判している最中に、なんと米ソ両国がお互い、侵略者と言い、争っているではないか。彼らに良心があるなら、恥ずかしくて裁判なんかやってられない。」

「大泥棒たちがお互い泥棒を決めつけながらコソ泥をつかまえ、お前は人様の物に手をつけたからお仕置きするのだ。俺たちは正しい、というに等しい。後世、ことにいまの青少年たちが成長して歴史を紐といた場合に、それは間違っている、自分たちにも理由がある、と言って、また戦争をはじめるかも知れない。」

「いまのうちに正しいことを言うべきである。ヒトラーは英雄であった。勝敗には関係なく英雄だった。そして独裁者でもなかった。その頃のバカ正直なドイツ人には、ヒトラーのような政治がふさわしく、そして彼が必要だったのだ。またロシア人には、スターリンのような専制政治がよかったのだ。」

「英国は一応、国家を仕上げてしまったのでもっともらしいことを言うが、ドイツはヒトラーのようにしなければ生きられなかった、と思う。しかし、ヒトラーは勝利を目の前にしながら負けた。ドイツはソ連軍に負けたんじゃない。アメリカに負けたのだ」

「日本人は勢いの盛んなうちはハナ息が荒いが、いったん旗色が悪なくなると、相手国の権力者に対しては、低姿勢になって、お世辞も言えば嘘もつく。だか、石原莞爾の言動には微塵もない。諸外国のジャーナリストも判検事も、「測り知れぬ大人物」といい、石原莞爾に対しては好意をよせていました。

石原莞爾を担当した検事が、東京裁判が終了、帰国するにあたって訪ねて来た。そのころ石原莞爾は東京の病院ではなかった。山形県の日本海沿岸にある西山農場に帰っていたため、検事はわざわざ、そこまで足を運んだのである。

そして、「あなたの話は非常に面白かったし、人生の指針になった。ありがとう。あなたの生きてきた道を切本にしていただきたい。本ができたら私にも送って下さい」とのことだった。私の父である仲條立一は酒田から秋田街道を北へ約五里の松林の中に、文字通りの一茅屋を構え、西山農場の指導者達と簡素極まる百姓生活を営んでいたのです。

.. 2021年11月11日 05:49   No.2335002
++ 仲條拓躬 (社長)…601回       
雪の日の惨劇
満州事変後から政情の腐敗、堕落が始まり、それを憤って国の革新を叫ぶ将校が単独で、あるいは民間の右翼団体と手を結び、三月事件、十月事件、血盟団事件、五・一五事件、神兵隊事件、士官学校事件などを起こしました。そして昭和10年8月の相沢事件以後、皇道、統制両軍閥の相剋は激化していきました。

そのころ軍部の中に、二つの派閥が生まれ、互いに敵視しあっていました。皇道派・真崎甚三郎大将、荒木貞夫大将、柳川平助中将、秦真次中将、小畑敏四郎中将、山岡重厚中将、山下奉文少将。統制派・南次郎大将、松井石根大将、渡辺錠太郎大将、小磯国昭中将、建川美次中将、橋本虎之助中将、永田鉄山少将、東條英機少将です。

事件は相沢三郎中佐が、統制派の永田鉄山少将を殺害したものですが、彼は永田少将が皇軍の統制を乱す元兇であると一途に思い込んだために起きました。この事件は、石原莞爾が仙台の四連隊長から参謀本部作戦課長に就任した日に起こったものです。

事件の当夜、石原莞爾の私宅に、某国公使館員が相沢事件に関連し、日本陸軍の派閥の真相をさぐるために現われた。石原莞爾はこれに対し、「年齢四十歳を過ぎれば、家庭のことを考えて行動するものだが、相沢中佐は、一途に国のためと思い上官を殺害した。わが皇軍は健在です」と言ったそうです。

並みの将校や政治家だったら、「気が狂った」とか「本当に困った」など、弁解じみた言葉に終始するはずですが、彼は相手の意表をつく言葉で、日本陸軍の健在を伝えたわけです。相沢が拘置されてから、石原莞爾に、「来て下さい、申し上げたいことがあります」という申し入れがありました。

石原莞爾が面会に行くと、相沢は陸軍部内の統制を心配している点を強調し「今後、日本陸軍の危機を救うことのできる人は、石原さんのほかにはいません。どうぞ青年将校のことをお願いします」と言う。

石原はこれに対し、「それが君たちの間違いなんだ。この石原に青年将校を頼むということが間違っている。君らのその考えを改めるのが、今日の陸軍にとってもっとも重要なことである。いいか、軍は天皇の統率し給うところである。それを忘れてはならん」と前置きして将校の心得べき点を、かんで含めるように言い聞かせました。

.. 2021年11月12日 08:36   No.2335003
++ 仲條拓躬 (社長)…602回       
その後、相沢が石原に特別弁護を依頼しましたが、これはいずれの軍閥にも属しない純正な軍人である石原莞爾こそ、自分の心境をもっともよく理解してくる人であると信じていたからでしょう。石原が相沢の弁護を承諾したことを知った皇道、統制の両軍閥は非常に驚き、彼らは策謀を行なったようです。

相沢公判が近づくと、相沢の代理と称して皇道派・真崎甚三郎大将の同調者を装う男が石原莞爾のもとに現われ、弁護人の依頼を取り消すと申し入れました。石原莞爾としては本人が取り消すというならば、そうすべきであるとして、弁護には立たなかったのです。

ところが、処刑直前に訪ねた石原莞爾に対して相沢は、「石原さんに弁護していただきたかった。それが私の唯一の願いだった。石原さん、どうして弁護してくれなかったんです。私がどうなるかは問題外です。ただ弁護していただきたかったのです」「君の話を聞いてワシも驚いた。君の代理人と称する男が来たけれど、あれは……」と石原が言う。

相沢も驚いて、「事件の前までは、私に向かってなにかと軍の不統一を憂い、真実らしいことを言っていた人たちがいました。しかし、私が事件を起こしてからは、用事や話したいことがあるので、手紙をいくら出しても返事もくれません。こうして面会に来てくれたのは、石原さんだけです。哀しいことです」

相沢の公判は第一師団軍法会議の法廷において、裁判長佐藤正三郎少将、検察官島田法務官、弁護士鵜沢博士、特別弁護人満井佐吉中佐で行なわれ、満井中佐が被害者の永田鉄山少将と統制派に陰謀あり、として痛烈に暴露しました。翌25日には皇道派のリーダー真崎甚三郎大将、前陸相の林銑十郎大将、また統制派の橋本虎之助中将らが証人に立った。

明くる26日、二・二六事件が勃発したため延期となり、以後は公表せず秘密のうちに審議され、死刑が確定した。これに対し石原莞爾は、「行為そのものは別として、彼の心情には心から同情している。相沢は軍閥を倒すことを念願し、純真のあまりあの行動に出たが、結果的には軍閥ともに操られたのである」といっていたのです。

.. 2021年11月12日 08:42   No.2335004
++ 仲條拓躬 (社長)…603回       
石原莞爾と奥田滋栄の出会い
東條英機中将が陸軍大臣に就任した時、腹心である武藤章を軍務局長に任命したほか、統帥、行政両面の要職には、やはり己の息のかかった者のみを抜擢しました。まさに東條軍閥ともいうべき権力機構が出現したのです。

一方、秋の師団演習を終え、管下各府県の巡視をおえた石原師団長は、京都に腰をすえ、東條軍閥に対し闘争を開始しました。東條英機と石原莞爾の対立は、関東軍の参謀副長以来の宿命的なものです。

石原莞爾が東亜連盟主義に基づいて満州国建国を推進し、五族協和、王道楽土の夢を実現しようと努力してきたものを、根底からくつがえしたのは東條英機といえるでしょう。その東條英機が、陸軍大臣の座を占め、日本国民を世界大戦に駆り立てようと企図しているのです。日本の平和を望む石原莞爾としては、黙視することはできません。

「東條軍閥が続く限り、国軍の将来はなく、日本は亡国の道を辿るしかない」と断言し、日蓮を思い起こすような激しい折伏を続けて行きました。石原は東條陸相を「東條軍曹」と呼びすて、武藤軍務局長を「武藤上等兵」と決めつけて、その無思想を攻撃した。

そして、政治と戦略の貧困を指摘し、「東條は軍と国の運命を託する陸軍大臣としては不適当である」と糾弾して、東條陸相およびその一統の即時退陣を執拗にせまったのです。師団長解任は覚悟のうえ、一身を賭けた壮絶きわまる戦いでした。

だが、師団長は天皇の親補職です。したがって陸軍大臣といえども、師団長の統帥は言うにおよばず、その思想信念に対する介入は絶対に許されないところでありました。石原莞爾は透徹した哲学と信仰にもとづいて正々堂々と論陣を張り、陸軍の体質改善と方針の転換、さらに国策の思い切った軌道修正を強く要求しました。

当時、京都周辺には、中将、少将を合わせて十数名の在郷軍人が在住していました。彼らは将官会議を組織し、相互の親睦、意見の交換を行なっていたのです。会合は定期的に師団の偕行社で行なわれ、師団長出席が慣例になっていました。

師団長はその席上、師団の現状、軍全体の動き、時局問題などについて講話するのが従来からの申し送りとなっていました。昭和15年12月上旬、師団偕行社で定期会合が開かれましたが、その時の幹事役は、奥田紘一郎の実父奥田滋栄退役少将でした。

.. 2021年11月13日 08:07   No.2335005
++ 仲條拓躬 (社長)…604回       
奥田滋栄は、明治43年に、会津歩兵第十五連隊で新任少尉だった石原莞爾と初めて会いました。会津連隊の将校団に対する戦訓講話の席上でした。一方は任官して半年もたたない新品少尉であり、他方は歴戦できたえ抜かれた大隊長です。二人の陸士卒業年次には十六期もの開きがありました。

その戦訓講話が終了した後の会食時、石原少尉が奥田少佐に種々質問したのが交友のきっかけとなったのです。そのときは双方とも知らなかったが、後年になって、石原、奥田のそれぞれ実父が明治維新後、警察官の同僚として親交があったことを知り、親近感を深めたのです。

石原莞爾の父石原啓介は旧庄内藩士で漢学者でした。奥田滋栄の実父中野重村もまた、旧会津藩士で江戸留守居役という身分でした。奥田鉱一郎の父は、母と結婚してから奥田家の夫婦養子となったのです。庄内、会津両藩とも、戊辰戦争で徳川幕府への節義をつらぬいて、最後まで戦いました。

そのため賊軍とののしられ、維新後はひどい仕打ちを受けました。官軍に参加した諸藩の武士は陸海軍将校として採用されましたが、庄内、会津両藩の武士たちは下士官にも採用されず、結局、邏卒に甘んずるしか道がなかったのです。両家も藩の家老職までつとめた家柄だったのですが、ともに角棒を持つ警邏からはじめたと言います。

その後、両者の父は、ともに警部まで昇進し、隣県同士の警察署長として気脈を通じ、それから没するまで交際が続いたと言います。そんな経緯があったのを知った石原、奥田の二人は、絶えず文通をつづけ、しだいに温かい友情で結ばれていったのです。それが久々に京都師団偕行社で、一方は現職の師団長として、他方は京都将官会議の幹事役として邂逅したのです。ともに感慨深いものがあったと察せられます。

.. 2021年11月13日 08:21   No.2335006
++ タク (社長)…2201回       
農村復興を成功させた農政家
各地の農村復興を成功させた農政家と言えば、二宮尊徳です。江戸時代後期の農村改革の指導者です。各地の農村復興や財産建て直しを頼まれ、それらをいずれも成功させました。社会のためになることをすれば、あとで自分に返ってくるという考え(報徳思想)を説いた。

二宮尊徳は、相模国(今の神奈川県)栢山の農家にうまれ、名は金次郎といいました。台風で家と田畑を失い、二宮家は落ちぶれてしまいました。父母も相次いで亡くなり、尊徳は一六歳でおじの家へあずけられました。

厳しい労働をしながらも読書をし、寝る間をおしんで勉学に励みました。おじに灯油がもったいないと言われると、荒れ地に菜種をまき、自分で油をとったといいます。尊徳はよく働き、二宮家を再興することに成功しました。

尊徳は奉公に出た先の家でもよく働き、その家の財産建て直しも成し遂げました。名前の知れわたった尊徳は、下野国(今の栃木県)や幕領(幕府の領地)での農村復興を頼まれ、そこでも見事な成果を上げました。尊徳の考え方は「報徳思想」といわれます。

社会のためになることをすれば、それは後で自分に返ってくるという思想で、尊徳はこれを「報徳思想」という財政再建策にまとめました。自分にふさわしい節度あるくらし(分度)と、あまったものは将来のために使うか、他人にゆずるかする(推譲)ことを、尊徳はすすめました。私は栃木へ迎え時、二宮という道の駅に寄ります。そこには二宮尊徳の銅像が建てられています。

.. 2021年11月14日 08:47   No.2335007
++ タク (社長)…2202回       
貧しい人々のために乱をおこした学者
貧しい人々の為に乱をおこした学者と言えば、大塩平八郎でしょう。江戸時代後期の儒学者で大阪町奉行所の役人でした。天保の飢饉の中、貧しい人々を救う為に乱をおこしました。乱は半日で鎮圧されましたが、事件は全国に伝わり、各地の反乱を引き起こしました。

大塩平八郎は、大坂町奉行所の役人の子として生まれました。平八郎自身も役人になりましたが、陽明学(中国の明の時代に、王陽明がつくった儒学のひとつ)を学んだ後、塾「洗心洞」を開きました。

1832年、天保の飢饉で飢え死にする者があふれるなか、米は豪商に買い占められ、大変な値上がりをしました。役人をやめていた平八郎は、非常用の米を分けあたえてもらうよう、奉行所に訴えましたが、聞き入れられませんでした。

平八郎は自分の書物を売って六百両の金をつくり、人々に分けましたが、全く足りませんでした陽明学では、「行動をともなわない知識は未完成であり、行動をおこすべきである(知行合一)」と説いています。

平八郎はこの教えをもとに、不正を行っている大商人や無能な役人を懲らしめることを決心しました。平八郎は塾生たちと軍事訓練を行い、「救民」を旗印に同志を集めました。しかし、事前に計画がもれてしまったため、予定を早めて1837年に反乱をおこしました。

しかし、乱は半日でおさえられ、逃げた平八郎は自殺しました。幕府の役人であった武士が反乱をおこしたことは、幕府にとって大きな衝撃となりました。この事件は全国に伝わり、各地で大塩をまねた一揆や打ちこわしがおきました。

また、江戸初期には、多くのキリシタンが処刑されました。60名の信者が、京都で火あぶりになったのは、1619年のことです。1622年には、「長崎大殉教」で宣教師たちが、極刑となっています。島原一揆にたいする大弾圧もありました。徳川幕府の姿勢が18世紀末以後に軟化していたことは、うたがえません。

1827年の「大阪切支丹一件」は、厳しく処断されました。6名の信者を市中へひきまわし、磔にしたのです。しかし、この件で、ことを穏便にすまそうとする者がいました。キリシタンの事件であることを表面化させたのは、与力の大塩平八郎です。

.. 2021年11月15日 05:10   No.2335008
++ タク (社長)…2203回       
大塩平八郎の尽力がなければ、これも闇から闇へ処理されていた可能性がありました。それだけ、大塩平八郎が正義感の持ち主であったということか。しかし、その邪共観が、同時代にあって古めかしくなりだしていたことは、否めません。
.. 2021年11月15日 05:21   No.2335009
++ タク (社長)…2204回       
予期せぬ事態が起こるかも
アストラゼネカ社のワクチンの場合、情報公開がほとんどなされておらず、そのウイルスの性状や、どのような遺伝子が組み込まれているのかなど、現時点でわからない点も多々あります。ワクチンとして注射された運び屋ウイルスは、ヒトの細胞に勝手に侵入する性質があるため、簡単に細胞膜を通り抜けてしまいます。

「トゲトゲたんぱくを合成しろ」という信号も一緒に組み込まれていますので、直ちに情報のコピーとしてmRNAがつくられ、リボソームで解読され、トゲトゲたんぱくが合成されるのです。

mRNAワクチンと違うのは、運び屋ウイルスが細胞内に入り込んだ後、「核」の中まで侵入し、コロナのトゲトゲたんぱくの遺伝子をあなたのDNAに組み込んでしまう可能性があることです。もし、そんなことが起きれば、その遺伝子はずっと残ることになります。

トゲトゲたんぱくが延々とつくられ、免疫反応がだらだらと続き、予期せぬ事態が起こるかもしれません。つまり、アストラゼネカ社ワクチンでも、長期的な健康障害が起こりうるということなのです。それだけではありません。コロナの遺伝子があなたのDNAのどこに組み込まれているかが問題です。

運び屋ウイルスは、過去、様々な遺伝子治療の実験に使われてきたものですが、一つ欠点があって、遺伝子を組み込む場所の制御ができないのです。米国の研究者がほぼ同じ方法を使って、犬で遺伝子治療の実験を行っています。

それによると、犬や人のDNAにはがん化を促進する遺伝子や抑える遺伝子があるのですが、そのすぐ近くに組み込まれてしまう人が出てくるかもしれないということです。この実験を行なった研究者も、「実験した動物を10年くらい観察しなければ安全性を確認できない」と論文の中で述べています。がんの潜伏期間を考えれば、ワクチン接種後10年くらいは心配な時期が続くことになります。

現在、新型コロナウイルスワクチンの副作用について注目が集まり、世界中の研究者たちが続々と論文を発表してします。それらをまとめながら、現実にどのような副作用が起こっているのかを、次に見ていきましょう。

.. 2021年11月16日 06:06   No.2335010
++ タク (社長)…2205回       
ファイザー社とモデルナ者のワクチンの基礎を作った2人の研究者の動物実験では、筋肉注射したmRNAは、ほぼすべてが「脾臓」と「網状赤血球」に集まっていました。脾臓は、おなかの左側、横隔膜の下にある鶏卵大の臓器です。

小児期では赤血球、白血球、血小板を作っていますが、成人ではウイルスに侵された細胞や、老化した赤血球を除去する役割を担っています。わかりやすく言えば、免疫機能によって破壊された細胞や微生物の残骸を血中から取り除いてくれるのが脾臓です。ここに、新型ワクチンのmRNAが集まるとどうなるか。

当然、mRNAが異物ですから、脾臓で激しい炎症を起こすことになります。接種を受けた日の夜から1週間くらい、ときには数週間にわたって高熱や関節痛、頭痛、下痢、激しい倦怠感などの症状に悩む人が3割くらいいます。

「こんな苦しい思いは初めて」と述懐する人も少なくありませんが、脾臓のほかにも、様々な部位で激しい炎症が起こっているものと想像されます。米国で、ファイザー社モデルナ者のワクチン接種を受けたあと入院した人に対し、PET-CTという画像検査で全身を調べたという論文が発表されています。

脾臓のほかに「液かリンパ節」にも激しい炎症が起こっている様子が。生々しい写真とともに紹介されていて、かなりショッキングなレポートです。テレビなどで多くの医師が発熱や倦怠感などの症状に対して、「想定された症状であり、体が守られている感じがする」と述べていますが、大きな間違いです。脾臓も含めた免疫システムに重大な障害が起きているかもしれないのです。「大丈夫か新型コロナウイルス・花伝社」・「コロナワクチンの恐ろしさ・成甲書房」参考

.. 2021年11月16日 06:11   No.2335011


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