返信


■--講和条約第11条の呪縛
++ 伝六 (大学院生)…110回          

講和条約を結ぶにあたって、連合国関係諸国は、日本国が国際軍事裁判及び各国が行った軍事裁判の判決を受諾することを講和の条件の一つとした。日本国はこれをのんだ。その苦さをもっとも味わったのは受刑者で、多くの国民はどのような判決であったのかということさえ知らない。国会議員も知らない。国会図書館の資料をネットで調べてみたら、東京裁判の英文記録は、どういうわけか判決の部分が欠けているようだ。これでは議員が判決がどういうものであったか、何を受諾したのか知りようがない。判決は結論であろう。過程も大事だが、結論はより大事である。どういう判決を受諾しそれが現在とどのような関係があるかをあきらかにするために、国会図書館に東京裁判の英文判決記録を備えてもらいたい。判決にまちがいがあれば、日本国家として国民の前にあやまりをただすべきである。
.. 2010年12月30日 13:03   No.233001

++ タク (社長)…330回       
昭和22年5月1日と2日、酒田臨時法廷に石原莞爾将軍を召喚した。山形県の酒田市商工会議所はものものしい空気につつまれた。極東軍事裁判が出張して、臨時法廷を開き、証人として石原莞爾の訊問をしようというのです。

裁判官の一行は判事、弁護士、速記者、通信兵、タイピスト、内外新聞記者65名という物々しいもので、特別列車を仕立て寝台車、食堂車、応接者、展望車まで備えました。石原莞爾は当時、私の父や同志たちと酒田から20キロ北方の吹浦の西山農場の自宅に静養中で、医師から絶対安静を命ぜられていました。

石原莞爾をなぜ裁判にかける必要があった理由は2つだと思います。1つは石原莞爾を東京裁判へ引っ張り出したら、何を言い出すかわからない、東京裁判をひっくり返すような発言をするかもしれないとの懸念です。第二の理由は満州事変で世界的に有名になった大物ですから、ソ連に対する手前もあり、形式的にも訊問しなければならなかったのでしょう。

石原莞爾将軍に私の父の血を輸血していました。当時石原莞爾は膀胱癌で出血が激しく、動かすには危険な容態でした。だが、石原莞爾は戦闘帽を被り、私の父のひくリヤカーに乗り、20キロの距離を酒田に向かった。米軍の軍医は非常に親切で「具合の悪いときは直ぐ休憩するから遠慮なく言え」と言った。

法廷は判事、検事、軍属キャメラマン、タイピストなど多くの人であふれ、その外に各国人が傍聴し、勝利者が敗者に向かって威圧する重苦しい空気の中に開かれました。石原莞爾は看護婦に付き添われ、1947年5月2日、極東裁判を臨時に酒田商工会議所に移して、訊問することになりました。

判事「証人石原は英語を話せるか」石原「日本語ならチョッピリ話せる」判事の問いに悠々と山形弁丸出しだったので、法廷にはドッと笑い声が起こって賑やかになった。裁判長は静粛を聴衆に喚起したのち、石原莞爾に質問しました。裁判長「訊問の前に何かいうことはないか」石原「ある。不思議に耐えないことがある。満州事変の中心はすべて自分である。事変終末の錦州爆撃にしても、軍の満州建国立案者にしても皆自分である。それなのに自分を、戦犯として連行しないのは腑に落ちない」

堂々と発言した。裁判長も検事も狼狽して「ジェネラル石原は戦犯として取り調べるのではない。証人として調べるのだ」と言い、そして「証人はそんなことを言ってはいけない。こちらから訊ねることに対し、『イエス』か『ノー』かを答えればよい」と注意して検事の訊問に移った。

.. 2010年12月31日 23:55   No.233002
++ タク (社長)…331回       
検事「満州事変における日本軍の被害の程度はどうか」石原「被害の程度を言い表すのに日本語には『イエス』『ノー』といった言葉はない。」と皮肉たっぷりに切り返すと法廷は再び爆笑に湧き返った。判事は石原莞爾に同情的で、検事が何か訊問すると「ストップ」を命じ、今の検事の訊問には答弁する必要なし、と言うことも多かった。

検事がまた戦略と戦術とを混同した訊問をするので石原莞爾は知らんふりをして「今の訊問を聞きそびれた。もう一度やって欲しい」そして大きな声で「裁判長閣下!!検事の言葉をご清聴願います」と、言ったので裁判長は「答える必要なし」と命じた。その時の検事の顔が怒りと興奮とで真紅になり更に訊問を続けた。

検事「満州事変の時に日本の兵力は、相手に対し20対1であったというが、それで勝ったのか」と不思議がって聞いた。石原「勝った。戦争の勝敗は必ずしも、数によっては決まらない」検事「そんな兵力で大鉄槌を下したのか」石原「いや、中鉄槌を下した」ここでまた満廷爆笑した。

検事「外に何か言いたいことはないか」石原「本庄と板垣は気の弱い男で、可愛い部下のために思いきった断を下し得なかった。人間としては人格高潔な至って立派な人たちだ」本庄は終戦時自決したが、板垣の弁護人はその場に居合わせたので、非常に喜んで直ぐ石原莞爾に握手を求めに来た。このようにして正式な検事の訊問は終わったのである。

訊問終了後、やりこめられていた検事が石原莞爾のもとにやって来て「つまらない訊問をしてすまなかった」と詫びた。それに対して石原莞爾は「いや一向お役に立てなくてお気の毒でした」と礼儀正しく、又皮肉も交えて答えたのです。もしドイツ語で話せる位に英語ができれば、あの法廷で圧倒するような言葉が言い切れなかったのは残念だと語る。

当時の山形新聞には次のような記事が掲載されています。5月1日『世紀の謎! 何を語るか石原将軍、裁判の舞台酒田に、満州事変の全容ア暴かる』5月2日『看護婦に付き添われ、着流しで出廷、石原将軍訊問開始』5月3日『石原将軍元気に大役を果す』5月4日『審理大成功、外人記者らの印象』。

.. 2011年01月01日 00:00   No.233003
++ 伝六 (大学院生)…111回       
所謂A級戦犯については、個々に判決理由がある筈である。極東国際軍事裁判所条例に「判決は公開の法廷において宣告せらるべく、かつこれに判決理由を付すべし」とあるから。連合国各国がおこなった軍事裁判の場合には、ほとんどの場合判決理由が書いてないらしい。はじめに結論ありきの裁判であった疑いが濃厚である。これらの人々は命令系統の中でなした行為であるにもかかわらず、個人として裁判された。死刑にされた以上、極悪人だったから、死刑にされたと何も知らない人は考える。そういう誤りをそのままにしておいてはいけないと思う。
.. 2011年01月08日 15:46   No.233004
++ 伝 (大学院生)…121回       
連合国の各国がおこなった裁判では「判決は刑期の宣言だけで、その理由書は交付されなかった。起訴状はほとんど一律に「故意かつ不法にも非戦闘員を殺害又は許容せり」の内容で、判決宣告は、第一項目有罪第五項目無罪と宣言するだけであるから、判決の際如何なる犯罪事実又は証拠の探証に基いて処罰されたのか不明であった。然も同じ罪状項目によりある者は死刑となりある者は無罪の判決を下された。吾々は何回となく、判決理由書、証拠説明を交付すべく請願したが、未だ一度もその回答に接したことがない。従がって今に至るまで、どんな理由、証拠のために受刑したか、その犯罪理由を知らないのである。」(「戦犯裁判の実相」より)戦争犯罪被告人裁判規程では、「判決理由書は交付することができる」となっていた。裏?の意味は交付しないことの推奨?であろう。
.. 2011年01月09日 12:09   No.233005
++ 伝 (大学院生)…122回       
「同じ罪状項目に依り或る者は死刑となり、或る者は無罪の判決を下された。我々は何回となく、判決理由書、証拠説明を交付すべく請願したが、未だ一度もその回答に接したことがない。従がって今に至るまで何んな理由、証拠のために受刑したか、その犯罪理由を知らないのである。」(「戦犯裁判の実相」より)
極東国際軍事裁判所の裁判とちがって、各国で行われる裁判の標準となる戦争犯罪被告人裁判規程では「判決理由を付けることができる」となっていた。これは普通は付けないということである。かくして何人もが無念の涙をのんだことであろう。

.. 2011年01月09日 17:01   No.233006
++ 六 (大学院生)…118回       
東京裁判における一例として、板垣征四郎は死刑の宣告をうけたが、その主因は何千人もの連合国の俘虜に食糧と医薬を与えなかったということになっているらしい。それは存在する食糧と医薬を故意に与えなかったということらしい。あるいは食糧と医薬をネコババしたという判定もあるのかもしれない。そんなことはないのに、そんなことだったとして歴史を書くのは、人類の法廷の前では否定されなければならない。
.. 2011年01月12日 16:53   No.233007
++ タク (社長)…332回       
違法性のある無茶な裁判だったが、結果には従います、ということで、東京裁判で示された歴史観までをも受け入れる必要はなくなるということでしょう。日本の指導者たちが共同で、近隣諸国を侵略しようと謀議をしたというような、ありもしないでっち上げを受け入れなくてもよくなるのです。そうなると、A級戦犯は、果たして極悪人なのかどうか、ということになってくるのではないでしょうか。

.. 2011年01月21日 07:40   No.233008
++ タク (社長)…333回       
石原莞爾は自ら戦争犯罪人であることを公言し、極東軍事裁判に対しても、たえず戦争犯罪人になろうと努力していました。このことは多くの人々が、戦争犯罪人にされまいとして、何とか逃れよう、逃れようとしていた事とは全く正反対の行動です。

結局、石原莞爾は、満州事変に関し極東裁判の証人として法廷に立ったのですが、これよりさきに石原莞爾は、終戦と同時に重慶通信社から特派されてきた中国記者宗徳和に、自分が理想を描いて着手した満州国が、心無い日本人によって根底から崩されたことに対して、次の如く述べています。

「満州国独立の結果は、日本人が満州を独占して多民族を圧迫し、建設そのものもただ単に多くのビルの建築と鉄道の敷設に止まり、産業開発もまた期待を裏切った。俺は在満中国人に対する約束を裏切った。この意味に於て、俺は立派な戦争犯罪人だ。俺はこれら独立に協力した中国人に対し、はなはだ済まなかったと考えている。ただ中国の当局者がこれらの人々に寛大な態度をもって臨まれるよう希望するのみだ。・・・溥儀を皇帝に推すことに関してはなんらの関心も持っていなかった」

.. 2011年01月21日 07:50   No.233009
++ タク (社長)…334回       
昭和23年11月4日、東京裁判で判決が言い渡されました。A級戦犯として起訴された者のうち、7人が死刑判決を受け処刑されました。その中で、板垣征四郎と土肥原賢ニの2名は、満州事変において中心的役割を果たした人物でした。しかし、満州事変を立案した人物、石原莞爾の名前はありませんでした。石原莞爾は、満州事変当時、関東軍作戦主任参謀で、高級参謀であった板垣征四郎とは盟友でした。実行力があり統率力にすぐれた板垣征四郎と、過激で独断で事を起こす石原莞爾とは、気が合うコンビでした。石原莞爾は関東軍の一参謀でありながら、板垣征四郎を担ぐことで、実質的な首謀者として満州事変を実現したのです。

.. 2011年01月21日 07:56   No.233010
++ タク (社長)…335回       
東京裁判での閉廷直後、広田元首相の死刑判決は、6対5の1票差で決まったとの情報が流れました。事実としてAP通信記者フランク・ホワイトが1人の判事から聞き、またカニンガム弁護人が大島浩元駐独大使に伝えたところによれば、死刑宣告をうけた7人のうち、広田元首相を除く6人に対する票決はいずれにも7対4。また、大島、荒木、木戸、嶋田4被告はそれぞれ5対6の1票差で、死刑を免れたのです。

班示談の少数意見は、この票決内容に示唆を与えました。5人の少数意見のうち、ハラニーヨ・フィリピン判事の場合は、多数意見を支持し、もっと厳格な刑罰を科すべきだと主張したが、パール・インド判事は被告全員無罪、ローリング・オランダ判事は被告別に自分の投票を示す量刑を指摘していたからです。

.. 2011年01月21日 10:04   No.233011


▼返信フォームです▼
Name
Email
ホームページ    
メッセージ
( タグの使用不可 )
Forecolor
アイコン   ICON list   Password 修正・削除に使用