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近衛文麿は、重大時局の首相として難局を切り抜けるには無理でありましたが、社会的、国家的信用を利用して総理大臣に祭り上げられていたのです。日米の外交調整に努力しましたが、東條陸相は頑として、これに反論を唱え、西園児の秘書を憲兵隊に召喚、また東久邇宮に対し憲兵警察網を張るなど、常識の範囲を逸脱しており、近影首相は、与えられた地位を保持するのは極めて困難と考え、天皇に次のような要旨の上奏文を奉った。
「さきに三度大命をかたじけのうし、米国との友好関係を調整し、支那事変の急速なる解決を図らんと努力するも、事態はますます重大となり、楽観を許されない。この際に日米国交調整、支那よりの撤兵が最善の策となりと信じ、東條陸相の説得に努め、懇談五度におよぶも、東條の承諾を求めることもあたわず、万策ここに尽き、願わくは重職を解任されたく」と述べています。
そして昭和16年10月、第三次近衛内閣は総辞職し、東條内閣となったのです。東條を総理大臣に推したのは内大臣木戸幸一でした。彼は重臣会議で、東條ならば軍の統制が可能であると述べています。歴史の教えるように、国亡ぶる時は、いつも重臣がお粗末です。
これが東京裁判によって明らかにされたが、ルーズベルトの最後通牒の内容は、石原莞爾がかねて唱えていた主張とはほとんど同様なものです。その骨子は、三国同盟を破棄すること。北満に集中する兵利器を減少してソ連に脅威を与えざること。支那本土および仏印より撤退すること。
天皇の意思に背き、近衛首相の懇請を拒否した東條が好んで口にした「軍の総意」は、「軍閥の総意」であって、軍の総意ではなかったのです。彼は憲兵警察の組織を悪用して反対派を脅し、己の行為に対しては、絶対に批判を許さなかった。いささかでも批判をするものが現れると、これを捕えて弾圧するという、いわゆる恐怖政治の時代となったのです。
在郷軍人会は純然たる修養団体であり、したがって政治に関与することを厳禁されているにもかかわらず、連隊区司令官会議において、東條首相の腹心である武藤章軍務局長は、自らのつくった翼賛壮年団に在郷軍人を入団させようとして、田中兵務局長に、「在郷軍人会に対し、在郷軍人を翼賛壮年団に入団するように要望せしむること」と強要しました。
.. 2021年10月25日 04:57 No.2321001
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