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■--石原莞爾の不起訴
++ 伝 (大学院生)…117回          

石原莞爾が訴追されなかった理由がしばしば論じられるが、東京裁判の眼目は侵略等の共同謀議の罪である。石原莞爾が共同謀議の一員とはしろをくろというよりむつかしい。論じるまでもないのだが、不起訴の経緯をみておこう。粟屋憲太郎の「東京裁判への道」によれば、昭和二十一二年に被告選定会議があって、三月二十八日第十二回会議のときに名前があがたそうだ。ところが、まちがって石原広一郎の報告が提出されて検討は延期となったそうだ。ほんとうなら、頓馬な話である。四月一日第十三回会議のときは、最終リストが決定され前に調査の報告ができるかもしれないということで決定延期。この日付のハーディンから執行委員会への石原に関する報告では石原のファイルには本人の訊問が一つもないことが述べられている。結局石原ははずされたわけだが、「フイリピンのロペス検事がこの人物はフィリピンにもどされ、アメリカの軍事法廷で裁かれるべきであると指示したとの、一見わけのわからぬコメントが付されている」。粟屋憲太郎は「被告選定を急いだ検察側は、たまたま石原が入院していたため訊問の機会を逸し、最終決定の段階までに十分な証拠を集められず、結局訴追の決断をくだせなかったのである」とのべているが、見落としいるところがある。訊問の機会を逸したのではない。訊問しても満足のいく訊問調書が得られなかったのである。入院だから訊問を遠慮しようなんて、ヤワな考えはない筈である。事実、検事が入院中の石原を訪問したという伝えがのこされている。板垣征四郎と橋本欣五郎の関係を知っているかということを検事が三回石原にきいた。石原は三回知らないと言った。検事は「これで今日の訊問は終った。明日又来るから板垣と橋本の関係をよく思い出して、明日は返事ができるようにしておけ」と言って立ち去ろうとした。石原将軍は病床からムックリ起き直り、「コラッ、待て!」と叱咤した。病室は三階だったが、一階にいた人達が何事がおこったのかと驚いたという。「今の話はなんだ。無礼千万ではないか、知らないものを思い出せとは何事だ。忘れたということなら記憶をたどって思い起こすこともあろう。知らない事と、忘れた事とは全然別だ。」これはまったくそのとおりで、さすがに検事も、あまり当然なことに文句もいえず、小さくなってあやまって帰ったということである。これは石原将軍正義の気魄である。こんなことを訊問調書に記録する筈がない。その後の訊問も結局検察に有利になるようなものは何一つないから破棄してしまったというのが真相であろう。ただ、記録だけみたって歴史の真実はわからない。これは小説的想像ではない。
.. 2010年09月05日 12:16   No.224001

++ タク (社長)…322回       
石原莞爾を語る時、極東軍事裁判酒田法廷の連合軍に対しての行動は感激するものがある。一方的な連合国の歴史観の誤りを指摘し、国際情勢の問題点を提起し、連合軍の民主主義に反することを相手に伝えた。

占領軍を恐れる日本人が多い中、石原莞爾は違っていた。
石原莞爾は極東軍事裁判酒田法廷の前に連合軍の検事と既に会っていたのです。
戦後初の内閣である東久邇宮に内閣顧問を委嘱された石原莞爾は、難病と東亜連盟運動に専念する理由からこれを拝辞したが、東久邇宮に、国民総懺悔など石原莞爾の考えを伝えた後、東京の逓信病院に入院した。

石原莞爾は、病院で連合国側の検事の尋問を受けたが、横柄な態度で日本人を敗戦国として見下していた事に対し、石原莞爾は怒り、検事はビックリして謝って帰ったといいます。
翌日、一筋縄ではいかないと考えたのか別の検事が尋問しにきた。
検事の質問は「戦犯の中で誰が第一級犯罪人」と訊ねた。
すると、石原莞爾は「トルーマン」と答え、大統領就任の時ばらまいたビラを見せ、そのビラには「日本国民が軍人とともに戦争に協力するならば老人、子供、婦女子を全部爆殺する」と書いてある点を示して、畳み掛けるようにこう言い放った「これは何だ!!国際法では非戦闘員は爆撃するなと規定があるにもかかわらず、これは何か!!」と、検事は「あれは脅しだ」と答えると「そうではない、このビラの通りに、実行し、B29が民衆すべてに爆撃し、広島や長崎は一体どうしたことか?トルーマンは、このビラの通り実行したトルーマン大統領の行為は戦犯第一級のそのまた第一級に価するものである」と言った。

次の検事の言葉では「日本の戦争責任を日清、日露戦争までさかのぼって調べる」と言うと、石原莞爾は次のように言う「それではペリーを呼んで来い、日本は当時徳川鎖国時代で、どこの国とも付き合いたくないと言って、堅く外交通商の門戸を閉ざしていた。それを米国からペリーが黒船でやってきて、門戸開放、通商交易を迫った。もし実行しなければ、大砲をぶっ放すと脅迫した。徳川政権は、結局米国の脅迫外交に屈して開国を決定し、列国と外交通商関係を結んだ。外国と付き合ってみると例外なく侵略主義の恐ろしい国だということを知らされた。それから貴国らを大先生として、日本は泥棒のような侵略主義を習い覚えたのだ。いわば貴国らの弟子である。もし日清、日露戦争が悪いというならばペリーを証人としてあの世から連れてくるのだな」と帝国主義の歴史をユーモアなど交えながら語り、米国への批判を行なったのです。

短い言葉で、よく本質をとらえている。
昭和22年酒田市において石原莞爾の訊問が行われる事となった。
なぜ極東軍事裁判が、酒田市において行なわれたかというと、石原莞爾を東京で訊問すれば、東京裁判と連合軍側の権威の失墜を招くことを恐れがあったと思うのです。

酒田法廷に出廷する石原莞爾をリヤカーで駅まで曳いた3人の内の1人である私の父親は当時の状況をこう語っているのです。

.. 2010年09月07日 08:19   No.224002


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