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石原莞爾が訴追されなかった理由がしばしば論じられるが、東京裁判の眼目は侵略等の共同謀議の罪である。石原莞爾が共同謀議の一員とはしろをくろというよりむつかしい。論じるまでもないのだが、不起訴の経緯をみておこう。粟屋憲太郎の「東京裁判への道」によれば、昭和二十一二年に被告選定会議があって、三月二十八日第十二回会議のときに名前があがたそうだ。ところが、まちがって石原広一郎の報告が提出されて検討は延期となったそうだ。ほんとうなら、頓馬な話である。四月一日第十三回会議のときは、最終リストが決定され前に調査の報告ができるかもしれないということで決定延期。この日付のハーディンから執行委員会への石原に関する報告では石原のファイルには本人の訊問が一つもないことが述べられている。結局石原ははずされたわけだが、「フイリピンのロペス検事がこの人物はフィリピンにもどされ、アメリカの軍事法廷で裁かれるべきであると指示したとの、一見わけのわからぬコメントが付されている」。粟屋憲太郎は「被告選定を急いだ検察側は、たまたま石原が入院していたため訊問の機会を逸し、最終決定の段階までに十分な証拠を集められず、結局訴追の決断をくだせなかったのである」とのべているが、見落としいるところがある。訊問の機会を逸したのではない。訊問しても満足のいく訊問調書が得られなかったのである。入院だから訊問を遠慮しようなんて、ヤワな考えはない筈である。事実、検事が入院中の石原を訪問したという伝えがのこされている。板垣征四郎と橋本欣五郎の関係を知っているかということを検事が三回石原にきいた。石原は三回知らないと言った。検事は「これで今日の訊問は終った。明日又来るから板垣と橋本の関係をよく思い出して、明日は返事ができるようにしておけ」と言って立ち去ろうとした。石原将軍は病床からムックリ起き直り、「コラッ、待て!」と叱咤した。病室は三階だったが、一階にいた人達が何事がおこったのかと驚いたという。「今の話はなんだ。無礼千万ではないか、知らないものを思い出せとは何事だ。忘れたということなら記憶をたどって思い起こすこともあろう。知らない事と、忘れた事とは全然別だ。」これはまったくそのとおりで、さすがに検事も、あまり当然なことに文句もいえず、小さくなってあやまって帰ったということである。これは石原将軍正義の気魄である。こんなことを訊問調書に記録する筈がない。その後の訊問も結局検察に有利になるようなものは何一つないから破棄してしまったというのが真相であろう。ただ、記録だけみたって歴史の真実はわからない。これは小説的想像ではない。
.. 2010年09月05日 12:16 No.224001
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