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■--組織と個人
++ 伝六 (大学院生)…107回          

シナ事変のはじまったのが、昭和十二年七月七日。同年七月二十二日、本間雅晴は参謀本部第二部長になっている。作戦を担当するのが第一部、情報を担当するのが第二部である。七月十一日石原の決断で華北出兵が行われたが、蒋介石中央軍の北上があったので、少数の現地軍と無防備の居留民が中国軍に包囲されと虐殺される危険性が高い。現地軍はそれほどは強くないというのが、石原の認識であったと石原将軍に親炙した故安藤氏から聞いた。
「石原と本間は事変不拡大、早期和平解決という基本では一致していながらも、それに対する見解、具体的な方法などには大きな違いがあった。(中略)第二部長就任後の本間は妻富士子にむかって「石原さんは天才といえるほど優れた人だが、同時に気違いだからなあ。そばでブレーキをかけるのが私の役目だ」と語っている」(角田房子著「いっさい夢にござ候」)
本間雅晴もすぐれた人だが、どうも結局石原包囲網??のコマとして起用されたように見える。
.. 2010年07月31日 11:01   No.223001

++ タク (社長)…320回       
情報部長本間雅晴少将は、日中戦争勃発数週間前に部長に就任した時、石原莞爾の意見を支持するように思われたが、一旦作戦が開始されると、本間雅晴は、石原莞爾の穏健な方針に対する反対を煽り立てることに大きな役割を果たした。参謀総長は、皇族の閑院宮元帥であったが、この人物に何かができるとは誰も期待していなかった。しかも、参謀次長今井清中将は、重病で公務を執行できなかった。参謀本部の他の部、例えば戦史部や運輸・電信部は、対中政策に強い関心がなく、いずれにせよ決定形成過程に影響力をほとんど持たなかったのです。

陸軍省では、愚鈍な将校という評判であった陸相の杉山元中将も、二・二六事件の最中の石原莞爾の横柄な要求によい記憶を持つはずがない。しかし、石原莞爾の大敵は、何と言っても陸軍次官の海津美治郎でした。海津は、「軟弱」な対中方針に断固として反対し、石原莞爾の足を引っ張る機会を待ち構えていた。海津美治郎の部下の一人に、意欲的で活発な対中強硬論者である軍事課長田中新一大佐がいた。確かに、軍務課長の柴山兼四郎大佐は、石原莞爾の意見に同意していたが、彼はまったく孤立していた。

このように、政策上の理由に加えて、石原莞爾個人の性格も災いして、日中間の緊張を和らげようとする処置をめぐって、官僚と決定的に対立したとき、石原莞爾には少数の支持者しかいなかったのです。これは、石原莞爾が不思議にも、当時同僚を説得して、自らの見解を承諾させようと頑張らなかったためでもありました。日中戦争勃発当時、参謀本部の将校であった下村定は、同本部の参謀長会議で、石原莞爾が苛立ちながらも、自らの意見に反対する者に屈して、後になって、どうすることもできなかった愚痴を言ったと回想しています。こうした傾向に、石原莞爾の対中方針を支持する部下は大いに失望した。それは、開戦後作戦を限定しようとする彼らの努力が、意気消沈した原因でもあった。日中戦争が開始される一ヶ月前の石原莞爾は「自分の目の玉の黒い内は中国に一兵も出さぬ」という言葉は、崩れ去っていくのです。

.. 2010年08月11日 13:44   No.223002
++ 伝六 (大学院生)…108回       
下村定の回想は知りませんでしたが、観察がどれくらい正確であるかは、私は少し疑問を感じます。下村定が陸軍大臣のとき、本間中将は礼遇停止の懲罰をうけました。バターン死の行進の責任等があるとしたのです。礼遇停止というのは、一日以上一年以内軍人の待遇を停止するというものです。しかし陸軍将校分限令第三条二によれば、将校たるの本分に背き又は其の体面を汚し勅裁に依り免官となりたるとき(官を失う)とあるので、本間将軍の待遇はこれに近い。マッカーサーの説明によれば、これである。昭和天皇がこのような処置を裁可されるとは考えにくい。この処置の責任者は下村定陸軍大臣であろう。極悪の環境ではあったであろうが、どうもこの処置は納得できない。下村定も不本意だったかもしれないが、こういうことをする人が石原莞爾のことを回想しても正解はださないのでないかと思う。もちろん石原莞爾に欠点弱点はなかったと考えるものではない。
.. 2010年08月17日 21:42   No.223003
++ タク (社長)…321回       
なるほど確かにそのように感じます。
盧溝橋では日本軍と蒋介石軍を戦わせることに成功した共産党が運命の糸を握ってしまいました。日本政府の基本政策は不拡大だった。もっとも、関東軍の一部には、この機に乗じて一気に中国軍を叩き潰そうという動きもあった。関東軍参謀長東條英機の一派である。度重なる中国側の停戦協定違反は、東條一派を勢いづけた。7月28日未明、日本軍は総攻撃に踏み切り、華北を平定しました。

戦争の不拡大を望む日本は、8月9日、南京政府と和平交渉に入ったが、同じ8月9日に上海で大山海軍中尉射殺事件が突発し、交渉は頓挫した。和平を望まぬ勢力の妨害だったことは十分に考えられる。8月になってから、蒋介石は上海周辺に十個師団を増強し、臨戦態勢に入っている。8月13日、海軍陸戦隊と中国軍の戦闘が始まり、戦争の舞台は華北から華中に移る。

中国軍は精鋭15万人、日本軍は松井岩根陸軍大将指揮下の五個師団など10万人。戦闘はトーチカの争奪をめぐって激烈をきわめた。中国軍の抵抗に手を焼いた日本軍は11月5日、杭州湾に上陸作戦を決行し、背後から中国軍を包囲しようとした。これで中国軍は総崩れとなり、南京に向けて撤退、ようやく上海戦は決着したのです。11月9日です。

.. 2010年08月25日 08:27   No.223004


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