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シナ事変のはじまったのが、昭和十二年七月七日。同年七月二十二日、本間雅晴は参謀本部第二部長になっている。作戦を担当するのが第一部、情報を担当するのが第二部である。七月十一日石原の決断で華北出兵が行われたが、蒋介石中央軍の北上があったので、少数の現地軍と無防備の居留民が中国軍に包囲されと虐殺される危険性が高い。現地軍はそれほどは強くないというのが、石原の認識であったと石原将軍に親炙した故安藤氏から聞いた。 「石原と本間は事変不拡大、早期和平解決という基本では一致していながらも、それに対する見解、具体的な方法などには大きな違いがあった。(中略)第二部長就任後の本間は妻富士子にむかって「石原さんは天才といえるほど優れた人だが、同時に気違いだからなあ。そばでブレーキをかけるのが私の役目だ」と語っている」(角田房子著「いっさい夢にござ候」) 本間雅晴もすぐれた人だが、どうも結局石原包囲網??のコマとして起用されたように見える。
.. 2010年07月31日 11:01 No.223001
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