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現時点のウィキペディアにこんなことが書いてある。「石原莞爾中将は1941年9月には著書で「戦陣訓」の重要性を力説していながら、「軍人勅諭を読むだけで充分」と部下には一切読ませなかったという説がある。」と。著書というのは何かというと、戦争史大観で、其の中の「蒋介石抵抗の根柢は、一部日本人の非道義に依りシナ大衆の敵愾心を煽った点にある。「派遣軍将兵に告ぐ」「戦陣訓」の重大意義も此処にありと信ずる」の箇所を引いている。戦陣訓のできたのは、今村均著「続一軍人六十年の哀歓」によれば、岩くろ?軍事課長が支那の各方面戦線視察後、東条陸軍大臣に対し、戦地の異常環境に即応する具体的教訓を示す必要があることを痛感したと報告したところから、すぐそれを起案して提出せよとなったという。はじめ軍事課で考えていたが、こういうことは教育総監部にやってもらうべきだということになり、当時教育総監部の本部長であった今村均のところにまわってきた。案をつくって関係各方面の意見を徴してみたら、「関東軍と京都師団の石原莞爾中将とがその不要論を力説したが、支那総軍は急速な公布を希望してきた」ということである。石原莞爾が戦争史大観で「戦陣訓」をひいた意味は、支那方面の一部将兵の暴をいましめることに「戦陣訓」の重大意義があるというので、戦陣の心得を概説するものなら、そんなものは不要だというのが、石原将軍の一貫した意見である。いわんや「戦陣訓」は東条陸軍大臣の名で示したもので、大臣というものは文官として仕事をするのが本来であって、東条個人がどうこうというのでなく、陸軍大臣の名でだすのが不適当である。現在のウィキペディアのこの箇所の記述は、一知半解というより、一知誤解である。
.. 2010年07月24日 12:14 No.222001
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