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今村均著「一軍人六十年の哀歓」をひろい読みした。今村将軍については山岡荘八は「皇軍の名将であったと今もしみじみ頭が下がる」と言っている。それほどの人であるが、石原莞爾将軍についての回想及び満洲事変以後の認識については、はなはだ疑問である。満州事変の時今村は参謀本部作戦課長であった。軍中央の意向をうけて不拡大方針を伝えたときの石原の言動態度に怒りを感じたことを書いてある。支那事変のおこったときは、今村は関東軍参謀副長で、石原は参謀本部作戦部長であった。このとき、今村は石原の不拡大方針に非協力的であった。ということは拡大してもよいという考えだったと思われるが、そこのところをはっきりと書いていない。満洲事変で石原が中央の意向に従がわない計画をたて、また事変勃発の後、中央に従わなかったのは事実だが、決断は本庄司令官がしたのである。関東軍の独断が認められる内規?もあった。形式上は罪を問われる事柄ではなかったと思う。彼等の行動が下克上の風潮をつくったというのは、少しおかしい。満洲事変の時期におこった。十月事件のほうが、よほど問題である。この十月事件は石原の策謀によるものではない。中央の統制無視どころか、クーデターをおこそうというのだから、きわめつけの下克上ではないか。これに対する処置は少し甘かったようだ。満洲事変における石原の成功?は下克上の風潮のひとつの縁になったかもしれないが、問題はもっと根が深い。
.. 2010年07月18日 14:17 No.221001
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