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■--疑問
++ 伝六 (大学院生)…106回          

今村均著「一軍人六十年の哀歓」をひろい読みした。今村将軍については山岡荘八は「皇軍の名将であったと今もしみじみ頭が下がる」と言っている。それほどの人であるが、石原莞爾将軍についての回想及び満洲事変以後の認識については、はなはだ疑問である。満州事変の時今村は参謀本部作戦課長であった。軍中央の意向をうけて不拡大方針を伝えたときの石原の言動態度に怒りを感じたことを書いてある。支那事変のおこったときは、今村は関東軍参謀副長で、石原は参謀本部作戦部長であった。このとき、今村は石原の不拡大方針に非協力的であった。ということは拡大してもよいという考えだったと思われるが、そこのところをはっきりと書いていない。満洲事変で石原が中央の意向に従がわない計画をたて、また事変勃発の後、中央に従わなかったのは事実だが、決断は本庄司令官がしたのである。関東軍の独断が認められる内規?もあった。形式上は罪を問われる事柄ではなかったと思う。彼等の行動が下克上の風潮をつくったというのは、少しおかしい。満洲事変の時期におこった。十月事件のほうが、よほど問題である。この十月事件は石原の策謀によるものではない。中央の統制無視どころか、クーデターをおこそうというのだから、きわめつけの下克上ではないか。これに対する処置は少し甘かったようだ。満洲事変における石原の成功?は下克上の風潮のひとつの縁になったかもしれないが、問題はもっと根が深い。
.. 2010年07月18日 14:17   No.221001

++ タク (社長)…318回       
心配な参謀本部は、満州に作戦課長の今村均大佐を派遣して、板垣と石原に状況の複雑さを理解させ、そうすることによって、無鉄砲な考えを押さえ込もうとしたのです。

関東軍の参謀達は、奉天の日本料亭でこの訪問者をもてなすことにした。そこで今村の努力は最初から大きく躓いた。食後、今村が使命の目的を説明し始めたが、さほど話してもいないうちに石原莞爾が割って入って、「何ということです。中央の腰の抜かたは・・・」と言い放った。今村は、腰が抜けているか抜けていないかの問題ではなくて、複雑な問題を冷静に見るか否かの問題であると説明し始めると、石原莞爾は嘲るように、「腰抜けの中央にたよっていては、満州問題は解決なんか出来ない」と言った。これに今村は答えて、「国家の軍隊を動かすようになった」一大事を出さきだけの随意のやりかたで成し遂げられるものではありません。全国民一致の力を必要とします・・・」と言うと。

お説教を早く切り上げさせたいと思った石原莞爾は、この時「ああねむくなった」と大きな声を出し、畳にごろっと寝転んで目を閉じてしまった。この侮辱的な振る舞いに激怒した今村は、席を立って、料亭で帝国軍隊の公務を行うとは何事かと、招待した参謀達を非難して辞し去った。翌日気持ちもおさまり、冷静になったので、今村は満州での改革の必要性について話すことによって、議論をもう一度軌道に乗せようと試みた。石原と板垣はこれに答えて、改革など中国人政府からは到底望めないので、それは必然的に独立国家の樹立を意味せざるをえなくなると言った。後に今村がいなくなってから、石原莞爾が今村は立派な奴だが、「遺憾ながら支那を知らない」と評したのです。

.. 2010年08月11日 13:26   No.221002


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