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■--開戦時の陸軍三中将
++ 伝 (大学院生)…113回          

大東亜戦争開戦の時、今村均中将は第十六軍司令官として、オランダ領東インド攻略の任務に、山下奉文中将は第二十五軍司令官としてマレーシンガポールに本間雅晴中将は第十四軍司令官としてフィリピンにおもむいた。・・・・敗戦降伏とともにこの三人のうち二人は刑死した。山下大将は絞首刑に、本間中将は銃殺された。今村中将は責任をきびしく問われなかった。死刑の二人とのちがいは降伏した相手によるのでないかと思う。今村は豪軍に降伏した。オランダ軍に降伏したのでない。山下大将にはマレーシンガポールのうらみがあり、本間中将にはフィリピンでの敗戦のうらみがある。どうしても栄光の将軍としておくことはできない、屈辱を与えてころさなければならない。そういうはっきりと表にだせない動機があった。山下大将降伏のときには、パーシバル将軍をわざわざ同席させていたのは、報復の意図を無言であらわしている。
.. 2010年06月26日 11:05   No.220001

++ 六 (大学院生)…112回       
ゼネラル山下の場合は降伏してから三週間後に戦争犯罪人として、合衆国陸軍から起訴された。裁判の規程も合衆国陸軍がつくったものだ。その規程は合衆国軍法によっていない。自らの全然関知しない残虐行為についての証言を二カ月間聞かされて、弁護団に奮闘にもかかわらず、司令官の責任だということで死刑の判決を下された。その裁判の間に俘虜として降伏した兵士のうちの二万人が米軍によって虐殺されていた。このことは後藤利雄著「お前が証人だーバターン死の行進の報復」に書かれている。
.. 2010年07月03日 11:23   No.220002
++ 六 (大学院生)…113回       
二万人の虐殺はどのように行われたか。「戦犯裁判の実相」という本によれば、それは飢餓等による虐待死であった。降伏してきた人に対して、すでに捕虜になっている人に命令して、飯米や乾パン乾肉などを含む携帯品を取り上げさせた。キャンプに入れば十分な食糧が支給されると言ってとりあげた。ところがキャンプに入って与えられたものは、一口で吸える重湯粥と一杯の汁であった。野草を食べたりしたが、空腹の連続で栄養失調の人と患者がバタバタと倒れていった。そうして死んでいった人が二万人という。後藤利雄によれば、二ヶ月の間に二万人死んだ。二万の墓標があったという証言である。二万の墓標のあった墓地は現在なくなっている。バターンでこの種のひどいことはしなかったのだが、ひどいことをされたと信じて報復に及んだらしいが、マッカーサーはバターーンの真実は認識していたのでないかと思う。日本軍の軍事的能力をなくすという観点から、行われた可能性が大きいと思う。バターンでは大本営参謀だったかの辻正信が捕虜の行進を見て、何をしているか殺してしまえという命令を出して、一部で殺害が行われたという伝聞を伝える者がある。辻正信がそういう命令を出したことは複数の証言があるが、実際に行われた部隊があるかは検証の必要がある。日本軍の兵士は捕虜と同等以上の過酷な行進をしたのだが、そのことは抜きにして、捕虜の虐待としてとりあげられた。
.. 2010年07月13日 17:11   No.220003
++ 伝 (大学院生)…114回       
山下裁判では、フィリピンでおこなわれた数数の残虐行為の証言がおこなわれたが、それらには奇妙なものが多々あったが、ゼネラル山下の弁護側それらの真偽については問題にせず、もっぱら山下がそれらの行為にはかかわりがないことを主張した。百をこえる事件について、調べるだけの時間がないのでやむをえなかったともいえるが、弁護側の限界である。ゼネラル今村は豪軍裁判とオランダ軍の裁判の二つの戦争裁判にかけられたが、状況がちがっていた。
.. 2010年07月17日 12:25   No.220004
++ 伝 (大学院生)…115回       
マニラ裁判では最高指揮官の山下大将の裁判がおこなわれ、残虐行為の司令官責任で絞首刑にされた。つづいて部下?の裁判がおこなわれた。ラバウル裁判では、今村大将の部下?の裁判が先に行われ、そのあとで今村大将の裁判がおこなわれた。順序としてはラバウル裁判が妥当の順序でマニラのやり方は、そういう順序にするかくれた動機があったのである。結局今村大将も司令官責任で有罪になったが、刑期十年ということになったと記憶する。その後オランダ裁判でジャワに行った。インドネシア独立の話がまとまりかけていた時だ。その時期もさいわいして、無罪となった。フィリピンとちがって、インドネシア人で日本に対する闘争をおこなった者がいなかった(インドネシアではオランダの圧制から解放してくれる天兵が北?からくるという伝説があって日本人がそうだと信じたくらい)ので、現地人に対する残虐行為は問いようがなかった。
.. 2010年07月17日 14:05   No.220005
++ タク (社長)…316回       
山下奉文大将の最期を見届けた牧師である片山氏の記憶のお話である。山下将軍は、さすがに冷静であった。将軍は片岡さんたちに語った。「君たちが日本へ帰ったら、人々に告げてほしい」と前置きして、戦死者の遺族に対し、総指揮官として謝罪したい、自分は指揮官として最善の努力をしたと信じ、この点は何ら恥じないが、にもかかわらず無能だったといわれたら、返す言葉がない、今後の日本の将来を考えたとき、義務の履行、科学教育の振興、幼時教育の重要性、という3点を忘れずに訴えてほしい、……等々。

また敗戦の後、自決を真剣に考えたが、司令官としての事後処理のため機会を逸し、「ために屈辱的な裁判を受け、軍人としての名誉を傷つけるはめになった」と残念そうに言われた。山下将軍の名が一般に知れ渡ったのは、大戦初期のマレー・シンガポール半島攻略のときだった。当時、休戦を申し入れてきた英軍司令官パーシバル将軍にたいし、山下将軍が机をたたいて「イエスか、ノーか、返事せよ!」とどなったという話があり、「マレーの虎」というニックネームがついた。

反面、日露戦争の乃木大将の態度。敵将ステッセル将軍に対する紳士的扱いと比較して、非難する空気があった。山下将軍は最期のとき、これを非常に気にしておられた。そして「あれは新聞記者の創作だ」と言われた。「あのとき、休戦にまつわる交渉がややこしくなり、パーシバル将軍がすっかり困っていた。私は見かねて、副官に、『細部のことをうるさく言う必要はない。イエスかノーかという結論さえ出してもらえばよい』と口をそえた。

細かい問題でパーシバル将軍をそれ以上、痛めつけたくないと思ったからだ。ところがそれが誤り伝えられた」真相をどうか伝えて、誤解を晴らしてほしいと念願されていた。話しながら、将軍は何かを飲んでいた。ビールであったかウイスキーであったか、片岡さんの記憶は定かではない。だれがいつ部屋へそれを持ち込んできたのかも、どうしても思い出せない。

.. 2010年08月11日 12:55   No.220006
++ タク (社長)…317回       
 ルソン島での「バターン死の後進」は歴史の教科書に登場する有名な出来事ですが、真実は違います。アメリカ・フィリピン軍が降伏したとき、日本軍は降参した捕虜7万余人を、炎天下の中、十分な水も食糧も与えずに、収容所まで徒歩で移動させ多くの死者がでた。アメリカはこれを国際法違反の残虐な「死の後進」と非難して、日本兵を死刑にしたのです。

 この移送で多くの死者が発生したのは、日本軍が計画的な行為や怠慢によるものだとアメリカは指摘しましたが実はそうではなかったのです。捕虜をバターン半島にそのまま放置していたら食糧も不足しており、マラリヤが多発していたから、捕虜を移送したのは適切な措置だったのです。マラリヤを治療する薬は少なく、日本兵自体にも多数のマラリヤ患者が発生していたのです。日本軍は徒歩移動が当たり前ですが、アメリカ・フィリピン軍では車両移動が当たり前だったため、徒歩行進によって受けた苦痛は日本側にはわからないことでした。また、日本軍から支給される味噌汁や牛蒡を木の根っこだと食べない捕虜もおり、栄養失調で倒れる原因となったと言います。最善と信じて行なわれた行為が悲惨な結果をもたらしてしまったのも事実なのです。

.. 2010年08月11日 13:18   No.220007


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