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■--石原の前に東条を語れ
++ 国道171 (幼稚園生)…1回          

石原完爾がとても平和の使徒とは思えないが、だらしのない無思想・無節操、単純精神主義人間が多い昭和軍人の中で、珍しく哲学を持ち、世の中を科学的・合理的に把握出来る一人として興味を覚える。実は私が石原完爾の名を知ったのは、今を去る40有余年前、高校2年生の時に、古文の教師(北京同和学院出身)が、授業を脱線して、「石原完爾がいれば、戦争をしなくて済んだかもしれない」と呟いたのがきっかけ。その後興味を持っていたのだが、当時は石原に関する文献が殆どなかったのである。
 それはともかくとして、石原を語るなら、その最大の敵、東条英機を語らなくてはならない。これを語らずに、石原のことを幾ら語っても、今の人には何の感銘もない。最近、東条の孫に当たる、死に損ないのババアがよくTVに登場して、田原総一郎なんかがこれに護摩を擦っている。東条と言えば、岸信介である。岸の孫が今や総理・総裁になろうとしている。利にさとい、田原総一郎がこれを見逃す筈がない。現在の小泉・安部路線で行けばその内、東条が復権し、かつての国賊の亡霊が復活するのである。東条−岸−児玉譽志夫−中曽根−安部という戦後闇社会の系譜が再び日本を覆うのだ。
.. 2006年09月15日 12:41   No.22001

++ タク (小学校高学年)…28回       
今日になれば、石原莞爾の予測が的中していた事がよく解る訳ですが、当時の陸軍の幹部には蒋介石の国民党軍を支援している中国民衆のナショナリズムの勢いが見えていないのです。中国に対する蔑視というか、日本の陸軍の精強神話を無邪気に信じているというか、たぶん両方でしょう。石原莞爾が頑として派兵に反対しているので、派兵論者の田中新一が業を煮やして、「作戦部長をやめろ」と石原莞爾に向かって怒鳴りつけ、石原莞爾が、「貴様こそ辞めろ」と言い返して、殴り合いの喧嘩になりそうになったというのはこの時です。結局石原莞爾は派兵を止める事が出来ずに作戦部長を辞めていきます。そして満州の関東軍司令部参謀副長に転任するのです。この後、陸軍の実験は武藤章、田中新一などの、いわゆる「少壮幕僚」と言われる軍人に移るのです。

石原莞爾が着任した関東軍には参謀長として東条英機がいました。東条英機は盧溝橋事件が起きたときには、関東軍司令部を派兵論でまとめ、関東軍司令官である植田謙吉大将の名前で、派兵の決断を促す声明を発表させ、また「東条兵団」を率いて、満疆地区に出勤したりしてします。武藤章や田中新一と同じく強硬論者だったのです。
この時の東条英機の対応ぶりが、「東条さんもなかなかやるな」ということで、武藤や田中に見直されます。後の陸軍次官、陸軍大臣、首相へと東条英機が出世の階段を上っていく糸口になるわけです。満州事変の立て役者と言われる石原莞爾の株が下がり、東条英機の株が上がった瞬間だったのですね。

.. 2006年09月19日 19:28   No.22002


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