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■--戦犯受刑者の言葉
++ 伝 (大学院生)…112回          

本間将軍は日記にこう書いている。「私が死刑になれば、国民は米国が勝者の威力を以て如何に無罪者を極刑に付したかを知る。わが子々孫々も正義人道を称うる米国が如何に無茶苦茶な国であるかを知る。この意味において死も亦意義あり、国家に奉公する道でもある。もう十年か十五年生きた所で病死する体だ。後世の歴史家の公正な裁判を待つ」。米国だけではない、英国も中国もソ連邦等も無茶苦茶な国であることを戦犯裁判で示した。これらの国の暗黒面を知っておく必要はあると思う。
.. 2010年06月03日 11:07   No.218001

++ タク (社長)…311回       
日本国が韓国を併合することを反対していた、伊藤博文を暗殺したとされる安重根の処刑から100年目を迎えました。韓国では様々な行事が行われ、獄中で書いた「東洋平和論」が脚光を浴びています。

ソウル市の広場で実施された「安重根100周年追悼式」で、鄭雲燦首相は政府を代表して追悼を述べ、安重根は東洋平和論を語り世界平和への道筋を示しました。現在も国家間の争いや戦争の痛みを抱える地球の民の現実を語りながら、世界が一つになることを力説した安重根の東洋平和論を絶賛しています。

東洋平和論は、安重根が死刑を宣告されてから、1カ月の間に自叙伝に記したものです。それには、1.旅順を永世中立地帯として日中韓による常設委員会をつくる。2.日中韓は同委を通じ、一定の資金を出資して共同銀行を設立して、貧しい国を支援する。3.日中韓は同委を通じて共同平和軍を創設し、北東アジア共同安保体制を構築する。4.ローマ法王庁に同委代表を派遣し、国際的承認と影響力を持たせるなどの内容が記されています。

また安重根は、死刑執行直前に残した遺言で「伊藤博文暗殺は東洋平和の為に実行した事なので、私が死んだ後も日韓の両国は東洋平和の為にお互いに協力する事を願う」と記されており、ここでも安重根の東洋平和に対する思いが表れています。

石原莞爾将軍は五族協和を宣言して日中韓に合わせて満州人とモンゴル人の五族で提言していました。安重根の東洋平和論には、その核心的内容に日中韓3カ国による具体的な協力構想が記されている訳ですが、韓国の評価もとても高いです。

.. 2010年06月05日 19:32   No.218002
++ 六 (大学院生)…109回       
戦争裁判は合衆国対本間雅晴の形でおこなわれた。原告アメリカ合衆国、被告本間雅晴だが、裁判官もアメリカ合衆国陸軍将官、検事もアメリカ合衆国陸軍将校、弁護士もアメリカ合衆国陸軍将校だから、公正な裁判を行うつもりでも、公正であることはむつかしいのに、合衆国の法律によらずに、臨時に裁判規程をマッカーサーがつくって裁判したのだから、裁断??とはいえても裁判ではない。わずかに弁護士の将校がアメリカの正義を代表したようだが、裁判官がマッカーサーの命令で動くのだから、有罪判決ははじめからきまっている。何故こういう裁判をしたかというと、ひとつは復讐のため、ひとつは政治的目的があったのである。政治的目的のほうが大きかったであろう。
.. 2010年06月06日 09:13   No.218003
++ タク (社長)…312回       
「A級戦犯」など戦争に勝った戦勝国側が、決めたものです。「東京裁判」などは勝った者が負けた者を裁くと言う復讐ではないか!!

日本人として「A級戦犯」達が、本当に戦犯なのか、それでは原爆を落とした者、無差別殺人を行った者は「S級戦犯」かな?(爆)首相が靖国神社に参拝することによって、日本が戦争国家になる訳がないではないか?と思うのです。

東京裁判での戦犯の証拠を採用するに関して、検察側に有利になるように、怪文書のようなものを採用して、日本人の弁護側が有利になりそうな証拠は採用をしない、ということが実際に行なわれました。勝った国が負けた国を裁くのだから当然の出来事でしょう。確かに負けた責任はあるでしょう。

現に、A級戦犯の人々は、敗戦の責任があると言っています。だが、国際法を無視した裁判で、無理やり死刑にされて、その死後も酷い扱いを受け続けるというのは、果たしてどうなのでしょうか。

.. 2010年06月11日 11:39   No.218004
++ 六 (大学院生)…110回       
戦争裁判では、証拠に関して何でもありであったから、裁判官の意のままの判決ができる。本間裁判などはマッカーサーの意のままであったと推測される。敗将の屈辱と苦悩を味わったのだから、聖人級の人物でないと公正な裁判はできない。フィリピン作戦要録をみると、アメリカからすれば無念なことが書いてある。「敵将ウェンライトがカブカーベンの民家において本間軍司令官と会見し、軍司令官がビザヤ、ミンダナオを含む全面降伏ならばこれを承認するが、然らざる限りは速にコレヒドール島に帰って再び戦備を整へよと命じたのに対し、ウェンライト中将は、ビザヤ、ミンダナオはマッカーサーの指揮下にあり、余の関知するところにあらずと答えたので、軍司令官は声を励まして、余の欲するところは総てか、然らざれば無である。足下はすでに余の掌中にあり、生殺与奪の権は余の左右するところであるが、武人の情をもって余は足下をコレヒドール島に送還することを約束するといって立ち上がった時に、ウェンライトは忽ち軍司令官の膝に縋って、さめざめと泣いたが、ついにコレヒドール島に送りかえされたが、再び戦端を開く勇気はなく、佐藤部隊に単独降伏を申し出で遂にビザヤ、ミンダナオを含む全面降伏はここに成立したのである。」ウェンライトはマッカーサーがトンズラ?したあとの戦いの責任者である。若干文学的修辞などもあろうが、ウェンライト将軍の気持ちもみじめであろう。その親分?のマッカーサーとしては、戦場の仇を裁判でうつという気分のあったことは十二分に考えられるのである。
.. 2010年06月12日 12:39   No.218005
++ タク (社長)…313回       
東京裁判酒田軍事法廷が終わったあと、記者が石原莞爾の意見を拝聴したいと、宿舎であった酒田ホテルで会見をしました。「ジェネラルは『マッカーサー軍政は大失敗である』と言われましたが、それは如何なる点でしょうか」との記者の問いに石原莞爾は次のように答えています。

「その第一は敗戦国の精神を侮辱していることである。君たちが日本に勝ったのは武力が少しばかり日本より強かったからである。腕力の強いヤツが、腕力の弱い者より精神がすぐれているなどという理屈はない。日本には日本のすぐれた誠心がある。マッカーサーは敗戦国の精神を侮辱し、民主主義を強要しているではないか。勝った国が負けた国を奴隷扱いにする、ということは大きな誤りである。」

「マッカーサーは、日本人をシェパードのように訓練しているが、さてその効果はどうか。教育者は被教育者の立場に立って行うことに於いてはじめてその効果も目的も達せられるものである。日本軍が、満州、中国でやったように、勝者が敗者に対する態度、すなわち支配、被支配の関係では教育はできるものではない。教育はなんといっても教育者、被教育者の心の通いが大切である。支配、被支配の間柄では心の通いなどあるものではない。」
と石原莞爾は語っています。

.. 2010年06月14日 08:08   No.218006
++ 六 (大学院生)…111回       
マッカーサーの戦争指導は、どちらかというと、「戦陣訓」に近い。勝敗の見透しがついたところで、本間将軍はマッカーサー将軍に降伏を勧告した。マッカーサーは決して降伏しないという意思の人である。フィリピンコモンウェルスの大統領等もフィリピン兵の命を助けるために降伏することを要請したが、もちいない。ルーズベルト大統領の命令だったかしらないが、アイシャルリターンと言ってコレヒドールを離れても、ウェンライト将軍に降伏することを許さなかった。安全な場所でウェンライト将軍を批判することは、戦陣訓とはちがうが、日本軍の大本営と似たところがあるかもしれない。
.. 2010年06月16日 15:44   No.218007
++ タク (社長)…315回       
「近頃聞くところによると、日本は石灰不足でストーブもたけない。国民は寒さに凍えている。ところが進駐車のストーブだけは赤々と燃えているというではないか。また日本の汽車は非常に混雑し、死人が出るという騒ぎである。2,3日前もこの付近の駅で子供が圧し潰されて死んだという。しかるにこの混雑する汽車の中に、君らや進駐軍だけの特別専用列車があるがガラ空きと言ってもよい。2,3人しか乗っていない。」

「どうだ君。これが君らの言う民主主義なんだ。これがマッカーサーの強要する民主主義だ。日本軍が占領地でとった態度も、これほどひどいものではなかった。部隊の出勤には一貨車専用の場合があったが、個人の出張、少数者の行動では現地人と同じ客車に乗り汽車賃も出していたのだ。」

「日本の過去を罪悪であると言って責め、裁く君ら自身が日本人と同じことをしていながら、馬鹿げた優越感をもって、日本人を動物扱いしている。日本人の精神まで侮辱している。マッカーサーが民主主義を日本に教えるならば敗残者日本人の苦悶と悲しみの上に立って、その苦労を幾分なりと心からわかち合うくらいの気持ちがなくて、なんで君らの手による日本の民主化なんてできるものか。どうだ、そうではないか」

記者「ジェネラルのいわれる通りです」石原「失敗の第二は、マッカーサーが、過去の日本軍がやった軍政と全く同じことを、やっていることだ。満州国を世間ではいろいろと悪くいうが、しかし満州誕生に際しての経緯は、一般にはよく認識されていない。」

「元来満州というところは、東亜諸民族混住の地で、各民族おのおの言い分があり、民族間の闘争の絶え間がなかったところである。はげしいこの闘争と苦悶の結果、協和がなくては生存も、繁栄もとうていできないことを悟って、民族協和という新道徳が創造され、民族協和のうるわしい理想郷の建設を目指して、満州国は生まれたのである。」と石原莞爾は記者たちに語ったのである。

.. 2010年06月22日 14:10   No.218008


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