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石原莞爾が赴任したとき、東條英機中将はすでに関東軍参謀長として執務していました。東條英機は星野直樹総務長官らと結び、満州国の政治に干渉しはじめていたのです。石原莞爾は東條英機らの行動を目撃し、反東條英機の態度を露骨にとるようになったのです。
一方、東條と星野ら日系官吏は、中央の反石原派と呼応して石原排撃の策動に狂奔するに至ったのは自然の理です。石原莞爾は天才的な素質、豪快な気風を持つ人物だったのですが、その反面、風変わりで、自信が強く妥協性が乏しかったと言います。
とくに筋の通らない意見に対しては真正面から衝突することが多く、また相手が誰であろうと構わず吹きまくり、感情を害させることが多かったのです。その場限りですめば、どうということもないのですが、相手は、それを根に持つのです。それに反して、東條英機は努力の人で仕事に熱心、おおざっぱなことが嫌いで神経質、そして策謀家でした。
大東亜戦争の末期、東條英機は東京の住宅街でゴミ箱をあさり、その中にわずかながら残飯を見つけて、「戦時中にもかかわらず食べ残しをするとはけしからん。国を挙げていっそうの節約をするよう、国民に呼びかけている」という新聞記事が掲載されたと言います。
なんのきっかけもなしに、節約を呼びかけても効果がうすいので、マスコミを動員してやろうと記者に働きかけ、浮浪者さながらにゴミ箱をあさったものです。その頃は配給も乏しくなって、残飯などあるはずもない。恐らく東條のでっちあげではないかと思われます。
東條英機、石原莞爾両者の対立を生んだのは、まったく相反する性格に起因しているからですが、理由はもう一つありました。東條英機が関東軍参謀長になったとき、石原莞爾は参謀本部作戦部長でした。東條英機は今村均参謀副長を東京に派遣し、拡大派を激励、あるいは爆動したことにも原因でした。
その怨念を抱いたまま、同じ釜のめしを食うようになったのだから、二人はことごとく反目、憎悪の目に火花が散ったのです。石原莞爾は着任前から関東軍の対満政策に関して反感を抱いていたが、着任後は関東軍の内面指導に真正面から反対の姿勢をとっていました。
.. 2021年03月14日 08:57 No.2148001
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