|
満州事変当時の軍司令官は本庄繁陸軍中将で、司令部は関東州の旅順にありました。駐屯部隊は、鉄道守備六個大隊、派遣一個師団、旅順重砲大隊、関東憲兵隊で、総数は将兵一万五百名でした。ところが、国境の風雲が緊迫の度をますにつれ、増員に増員をかさね、昭和20年春には75万となったのです。
当時、満州と称される地域は、奉天、吉林、黒龍江の三省で張学良の支配下にありました。張学良は張作霖の息子で、彼の指揮下にある将兵は23万といわれていました。この三省に熱河省を加えて満蒙と呼んでいたのですが、その総面積は当時の日本の総面積の2倍に当たるものとみられていました。
日本はこの地を国防の第一線とし、対ソ戦略上の重要地点と定め、軍事的、外交的に考慮が払われていましたが、日満支間に絶えずゴタゴタが発生していました。石原莞爾が着任したのは、張作霖の爆死事件が発生、そのほかにも大小さまざまな事件が続発している昭和3年10月でした。
張学良は日本に対し報復の念に燃え、排日の運動を盛んに行ない、日支間の空気はますます険悪となっていました。これに対する日本政府の外交交渉は当を得ず、まさに 風前の灯の感がありました。陸軍将校の間には、在留邦人の生活を守るため速やかに軍事的解決を行なうべきだ、という声が起こっていました。
石原莞爾が満蒙問題を処理することとなり、最初に考えたのは対ソ関係でした。日本が北満を勢力下におけば、ソ連の侵入は困難であり、仮にあったにしても侵入を阻止するのは可能です。中国本土や南方への発展も考えられるのだから、満蒙は、わが国運発展のためには欠くべからざる戦略拠点となります。
日本は満蒙を緩衝地帯と考えていましたが、張学良は青天白日旗をかかげて国民政府と通じているので、緩衝地帯ではなくなってしまったのです。そこで日本は、満州はわが国の特殊権益地帯であり、したがって治安を維持しなければならぬ、と主張したのですが、この主張は武力衝突に発展する恐れが多分にありました。
平和解決、あるいは武力解決といっても、突きつめれば権益思想にもとづくものです。日本側としては、日清戦争から長期にわたって取得した多数の権益を確保しようとする意図があります。中国側にも張学良を先頭とする民族主義運動がはじまり、失地回復の思想が芽生え、そして急速に生長していたのです。
.. 2021年03月08日 05:23 No.2141001
|