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○蠣崎さんの電話があったことから、喜代子さんは意を決して公表に踏み 切ったのです。 更に分かったことは、明治5〜15年の七沢村一体は自由民権運動のメッカ であり、湯治場を開いていた曽祖父は運動家でもあったことなどが幸い、 代々保存されたのかもしれません。七沢温泉に滞在中、多喜二は「オルグ」 や文芸評論を主筆、また、近くの厚木女学校で講義もしたようです。学校 の教員に支援者がいたらしいです。 当時、女将ヤエさんは多喜二の首筋から背中にかけて拷問の傷跡を見て、 彼岸花の根をすりおろし、卵、小麦酢を混ぜて湿布薬を作り、張り替えて あげていたという。官憲に見つかれば商売はおろか、命がけの行動でした。 福元館は七沢温泉でも最古の宿と言われ、江戸時代から大山詣でや湯治 客が訪れていたようです。 多喜二が七沢温泉を離れて、再び闘いの場にもどり、官憲に捕まるまで のいきさつは今井正監督映画「小林多喜二」に詳しい。 ○その後、東京築地署で拷問の末、1933年2月20日29歳の若さで虐殺され ました。 私自身、虐殺の模様は通夜の席に立会ったという今は亡き作家貴司山治 さんから伺ったことがあります。全身打撲の無惨な姿だったそうです。 福元館へは、東京から車に乗れば1時間30分ほどで行けます。私は友人 を案内、既に3度訪れました。離れの部屋はリニューアルされたというが、 保存状態もよく、多喜二の着ていた丹前などあり、80年以上前とはとても 思えず、その都度タイムスリップしてしまいます。 現在の主人から鍵をお借りすれば、誰でも部屋に入り、見学できます。 旅館に宿泊もできますが、私は日帰り入浴(1,000円)で多喜二と同じよ うにゆったり温泉につかり、気持ちの良い時間を過ごしています。 ついでに、宿のご主人から聞いた話、多喜二は湯のなかで、ブラームス を口ずさんでいたそうです。多喜二は闘いの合間に、クラッシック音楽を 好んでいたのですね。ロマンを感じます。 このような話が、80年も受け継がれているとは、多喜二が聞いたらどう 思うだろうか。
.. 2021年02月21日 08:20 No.2129008
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