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私の父である仲條立一は酒田から秋田街道を北へ約五里の松林の中に、文字通りの一茅屋を構え、西山農場の指導者達と簡素極まる百姓生活を営んでいました。8月13日の朝、石原莞爾将軍の病床にいたところ面会しても話は数分間しかできまいとのことでした。
お見舞いに駆けつけてきますが、長居をしては苦しかろうから、顔を見るだけで満足せねばなるまいと思いながら訪ねてきたと言います。将軍は、からだを横たえると肺臓に水が溜まって呼吸ができなくなるというので、床の上に積み重ねた蒲団によりかかっていた。
将軍と相対してまず驚いたことは、あれほど長い間、異常に苦痛を伴う病気に悩み続けながら、その顔には微塵も暗い影がなく、実に穏やかな微笑を堪えていることでした。将軍の羅漢顔が、病気の間に菩薩顔に変わっているのです。
そして来訪を喜んで、決して瀕死の病人と思えぬ明瞭な言葉でいつもの通り話の筋道をテキパキと運び、世界と日本の将来についての透徹した予見、法華経に属する深甚な信仰を、それからそれと語り続けます。説法を聴聞する厳粛な気持ちで、ほとんど一言もさしはさまず、ただ将軍の一言一句に耳傾けて、これを我が肝に銘記していました。
語り終わって将軍は、その名のように莞爾たる面持ちで、「日蓮聖人は還暦で亡くなられ、私も聖人と同齢で往生するのは、誠に有難いことです」と言いました。一週間このかた、数分間話すと昏倒してきたという重病人が、常人と変わりなく話し続けたということは、何と驚くべきことであろう。
初めの間は病気に障りはせぬかと心配しましたが、説き去り説き来る将軍の話に聴き入るうち、いつしか瀬死の重態などということを忘れ果て、ただ至心に耳を傾けました。それは全く生死を超脱した将軍の心境に、引き込まれたからでしょう。
また、将軍が昏倒したときには全く意識を失った状態のように見えましたが、将軍自身が語ったところによれば、この昏倒の間に法華経についての深い理解を把握し得たとのことでした。激しい病苦と疲労のため、五感の活動は一時中止しても、将軍の異常な頭脳だけは、整然とその機能を働かしていたのでした。
.. 2020年11月17日 16:12 No.2076001
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