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■--パル判決書より
++ 六 (大学院生)…105回          

検察側によって与えられた理由とさまざまな権威の意見とに心配(anxious)注意深い考慮をはらったのち、私は次の結論に達した。
1、戦争のカテゴリーにあるものが国際生活において犯罪または不法となったことはないということ。
2、政府を構成し、その政府の機関として職分をはたした個人は、国際法上、申し立てられた刑事責任を負うことはないということ。
3、国際コミュニティは国家または個人を責め罰する法律的手続きを含むようにすることを可とするような段階にはまだ達していないということ。
私は、申し立てられた日本の計画と共同謀議の目的についてはいかなることも言わなかった。私は、誰も一国家の他国家による支配が国際生活において犯罪になると真面目に論争するとは信じられない。この目的を成就するために企図された手段が合法的かどうかという問題は別として、目的そのものは国際生活において不法または犯罪でなかったことは判決されねばならない。(つづく)
.. 2010年01月08日 21:57   No.207001

++ タク (社長)…302回       
廃刊になったアサヒグラフで原爆の写真を見ました。写真は当時のアサヒカメラマンがかけつけて写したものです。占領軍は原爆の写真を草の根分けても探し出して没収したが、カメラマンは7年間隠しに隠し待ち、昭和27年占領軍が去る日が来たので、アサヒグラフの全誌面をあげて大特集をしたのです。

全身の皮膚をたらしてもなお歩むもの、生きながら早くも蛆虫がわくのをまかせているもの、何気なく見た子供は嘔吐したという。雑誌がいくら売れてもたかが知れている。現に広島市長は「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから」と碑に掘っている。これでは原爆を投下したのは日本人が悪いのだと言わぬばかりだと言ったのは日本人ではなく外国人であるインドのパール判事だったのです。

もし原爆を落とさなかったら、本土決戦になっただろう、そうなれば死傷者は何千万をくだるまいとアメリカの知識人は言い、広島県人でさえあの碑に文句を言う人はいなかった。百聞は一見にしかず、過去「我ら皆人間家族」という写真展があった。ヒューマニズムあふれる黒人一家の写真をもって世界中見せて歩いて成功した。黒人一家に赤子が生まれ、一族喜ぶこと白人一家と変わらぬことを強調した写真展です。

.. 2010年01月12日 09:02   No.207002
++ 六 (大学院生)…106回       
(つづき)他のいかなる見方においても、全国際コミュニティは犯罪的な人種(criminal races)
のコミュニティであろう。少なくとも多くの強国がこの種の生活をしていて、もしこれらの行為が犯罪であるならば、すべての国際コミュニティは犯罪の生活ーあるものは実際犯罪を犯し、他はこれらの犯罪における事実の後の従犯者となっているーを生きている。どのような国家も、これまでそのような行動を犯罪として扱わなかったし、すべての強国はそのような行動をとった国と密接な関係を続けている。法の問題は法の学説と論争の偏狭な歴史のみが保たれて他は強制的に除外されるところの知的隔離領域において決定されるものではない。我々は論争がおこったところの世界について無知でいることはできない。トレイニン氏んぽ期待する事々(hopes) は1943年のモスクワ宣言にもとづいていて、それによって、彼によれば、国々は今や「すべての国家が彼等自身の政体(government form) を選択する権利をもつことを尊重する」ことに同意した。彼の希望は、しかしながら、まだ実際の生活において実現していない。そしてたしかに第二次世界大戦前の、我々が関心をよせる期間の間、強国の政策を反映した趨勢は、そのような希望に対するいかなる余地もさしだし(offer)ていなかったのである。このような状況においては、私は少なくとも第二次世界大戦前には、国際法は、これらの行動を犯罪または不法となすように発達してはいなかったという見解を提起し(prefer)たい。

.. 2010年01月12日 14:12   No.207003
++ 六 (大学院生)…107回       
以上はパル判決書第一部予備的法律問題のおわりの部分で、邦訳書p467〜p469にあたります。「トレイニン氏んぼ」は「トレイニン氏の」の誤植です。連合国の検察側による起訴状にある「本共同謀議の主たる目的は侵略国家に依る世界の他の部分の支配と搾取との獲得及び・・・」という起訴理由に対する見解をのべたものと思われます。
.. 2010年01月17日 14:43   No.207004
++ タク (社長)…305回       
マッカーサー司令部および極東裁判はいかなる理由からか、石原莞爾を戦犯にしないようにと努力した。また検事も戦犯にしないようにと逃げる。これは極東裁判における一大奇観です。石原莞爾としては自ら戦犯を名乗り出て、東京裁判で真実を語ろうと考えていました。それだから当時石原莞爾は堂々と次のような発言をしています。

「戦争裁判も大きな政治の問題で争うべきである。戦争に負けたからといって日本人は卑屈になってはいけない。小さな国際法の問題だけではない。日本を侵略国だといって裁判に付している最中に、どうだ、米ソ両国が互いに侵略者呼ばわりして言い争っているではないか。そして今にも戦争を起こさんばかりに争っているではないか。彼らに良心があるなら、はずかしくて裁判などやれるものではない。」

「大泥棒どもが互いに泥棒呼ばわりをしながら、日本という小泥棒をつかまえて、お前は泥棒したから怪しからんと裁判に付している。アメリカだけが正しい、などということは、後世、ことに今の青少年たちが成長して世界歴史をひもといた場合に、これは甚だ間違っているのではないか、それなら自分たちにも理由がある≠ニ言って、また戦争をまき起こさぬとも限らない。今のうちに正しいことを言うべきである。」

「ヒットラーは英雄であった。これはヒットラーの勝敗には関係ない。ヒットラーは独裁者ではなかった。当時の愚直なドイツ人にはヒットラーのような政治がふさわしかったのだ。また鈍重なロシア人にはスターリンのような専制政治がふさわしいのだ。英国は海賊の子孫で、海賊を働いて一応仕上げてしまったので、今ではもっともらしいことを言っているが、ドイツとしてはヒットラーのようにしなければ生きられなかったのだ。しかしヒットラーは勝利の直前に負けた。ドイツはソ連の陸軍に負けたのではなく米国のB29に負けたのだ」

外国新聞記者も、検事も、石原莞爾に接した者はいずれも、日本に来てこん人に会ったことがない、日本人は権力者に対しては、心にもないお世辞をつかって嘘をいうが、このジェネラルだけは全く嘘なしで、「底知れぬ大きな人物」だと言って、石原莞爾には好感をもっていました。

石原莞爾の取調べに当った検事が、東京裁判が終っての帰国の際に、わざわざ山形県の田舎である日本海沿岸の西山農場まで、見舞い品をもって石原莞爾の病床を訪れた。私の父は石原莞爾の身の回りの世話をして将軍に自分の血を輸血していたのでその出来事を私に語った。「ジェネラルの話は非常に面白かった。ぜひ今までの話を出版していただきたい。そしてその一部を私にも送って下さい」と丁寧に申し入れて帰国したと言います。

.. 2010年01月28日 10:28   No.207005
++ 伝 (大学院生)…107回       
昭和二十年六月二十六日から八月八日まで、ロンドンで連合国(米英仏ソ)の代表が会議を開いてナチス戦争犯罪人の裁判と処罰に関する件について話し合い、国際軍事裁判所条例となる協定をおこなった。ソ連からは、最高裁副長官ニキチェンコ将軍とソビエト科学アカデミー会員トレイニン教授とが参加した。この会合で米代表のジャクソン米最高裁判事は侵略を定義しようとした。これについてニキチェンコ将軍は次のように言っている。「ジャクソン判事の提議した侵略者の定義を議論するのはこの委員会の権限ではないと思う。・・・裁判所には被告がどのような戦争を開始したかを判定する権限はないであろうし、戦争の原因に立ち入る権限もないであろう。条例に「侵略の定義」を入れようとしてもわれわれは裁判所と同様そのような権限はないであろう。これをとりあつかうのは国際連合(UN)または安全保障機構の権限である。裁判所の任務は特殊の犯罪行為を行った戦争犯罪人を裁くことである。」これだけ読むと正論のようであるが、あるいは侵略を定義するならば、終戦まじかに日本を攻撃したことが侵略でないとできるような定義はないだろうと考えたためかもしれない。東京裁判におけるソ連判事はまさに鉄仮面というより、鉄面皮であるが、内心では自分達の行為は侵略だと思っていたと思われる。
.. 2010年01月29日 12:19   No.207006
++ 伝 (大学院生)…108回       
ロンドン協定が8月8日で、ソ連が日本に宣戦布告して攻撃してきたのが、同月9日だから、ニキチェンコ将軍は、ソ連軍の日本侵略を会議の時には知らなかったと思われます。私はロンドン会議のほんの断片の記録を読んだだけなので、無意味の想像を書きました。
.. 2010年01月30日 20:57   No.207007
++ タク (社長)…306回       
昭和20(1945)年8月9日午前零時過ぎ、ソ連軍が日ソ不可侵条約を一方的に破棄して「満州国」へ一斉になだれ込んだ瞬間から、在満日本人の地獄の責苦以上の苦難の日が始まりました。頼みの綱であった関東軍は、一般人の知らぬ間に兵力を転用した為、弱体化していました。

さらに、大本営の作戦方針により満州の4分の3に当たる部分を放棄することに決定して、まる裸となった邦人たちは、対ドイツ戦によって荒みきっていたといわれるソ連兵、長い圧政への復讐の念に燃える現地の人の、暴行、虐殺、掠奪から逃れるすべを持たなかったのです。なかでも、もっとも悲惨だったのが、北辺防備という名目のもとに、辺境に入植していた開拓団の人々でした。

ただでさえ、交通、通信の不便な奥地にあり、戦局の推移に関する情報もわからなかった開拓団が、ソ連参戦の動きを察知することは不可能でした。ソ連の侵入は全く予期せぬ出来事であった。しかも、6月ごろから全面的に行われた関東軍の「根こそぎ動員」によって青壮年男子は兵隊として狩り出され、開拓団に残っていたのは老人と女、子どもだけでした。それだけでも混乱は想像を絶するものがありました。

居住地にとどまる女、子ども。それだけにその混乱は想像を絶するものがあった。逃れるにしてもその運命に大差はありませんでした。半生を賭して切り開いてきた土地を見捨てて南部へ逃れた人々も、途中、ソ連軍や現地の人の襲撃に遭い、足手まといの子どもたちを自らの手で処分したあと自決する者が相次いだのです。そして、死と飢えの恐怖と戦いながら、各地の収容所に辿り着いた人々にも、似たような運命が待ちかまえていたのです。

たとえば浜江省県伊漢通開拓団跡の収容所に、終戦から翌21年5月までの間に収容された8640名の場合、ソ連軍に拉致された者460、脱走2360、現地人の妻となった者2300、ハルピンへ逃れたもの1200、現地在留1120となっている。そして全開拓団人口約27万のうち死亡者は8万、約30%にのぼり、在満日本人総数約195万人のうち開拓団人口が占める比率が約14%であるのに対し、死亡者は17万6000対8万で実に50%という比率になる。

満州開拓団は日露戦争以後の大陸進出政策の展開の中で、国内、とくに農村不況の打開と北辺防備という一石二鳥の効果を狙って国策の名のもとに推進されてきました。満州事変後の「満州国」建設は、石原莞爾将軍の下、五族協和、王道楽土というスローガンの下で平和な日々を過ごしていた豊かな満州国だった。

だが、石原莞爾が左遷されてからは東条英機率いる関東軍がはびこるようになり、太平洋戦争に突入すると、軍事的、産業的要請に基づいて戦時施策の重点として奨励されたのです。まさに日本民族の大移動であった。そして国策に従い、新天地開拓の理想に燃えて渡満した素朴な農民たちを待ち受けていたのがこの悲劇な運命だったのです。

そしてこの悲劇を招いた直後の原因は、五族協和(満州・モンゴル・中国・朝鮮・日本)を標榜しながらも、日本人の指導意識が露骨にあらわれたこと、さらに開戦後、労務供出、糧穀出荷といった強制が現地の人の反感を買ったことにあり、それが日本の敗戦とともに報復行為にかりたてたといえるでしょう。しかし開拓団の場合、現地の農民の間には、同じ土地に生きることの親近感から、悲惨な開拓団民に対して恩讐を超えて暖かい救いの手を差し伸べた人たちも決して少なくなかったの事実です。

.. 2010年02月04日 06:36   No.207008


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