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論文「われらの世界観」は、石原莞爾が極東軍裁判前に各国の検事たちから入院先の病院で尋問を受けた後の7月8日に病院で書き始め、昭和22年1月の大手術前に若い同志たちに、西山農場の自宅で講義したものです。石原は膀胱癌の大手術前で、死期を感じていた。にもかかわらず、寒い雪の夜7時から9時まで、石原は丹前を羽織った姿で講義した。
当時、酒田の旧制中学校を卒業して間もない仲條立一は、のちに酒田法廷に出かける石原莞爾が乗ったリヤカーを引き、月見川を渡った1人です。石原莞爾の講義を受けたときには18歳だった。仲條立一はその夜のことを、「石原莞爾平和思想研究会」の会報誌にこう書いています。
「私と今は亡き小松健作君と共に、『われらの世界観』について石原先生に御講義を受けたのは昭和22年1月初旬頃で、2日にわたっての夜だった。1晩目は私がメモを取るのに精いっぱいの語り口で、しかも要点を分かりやすく明確に教示された。時間は夜7時から9時過ぎくらいだったと思う。何せ先生と直接対面してお教えを受けるという過分な幸せと緊張で第1日目は無我夢中のうちに過ぎたといえる」。
「次の日は外寒厳しかったことを覚えているが、しかし先生は時間通り講義をお始めになり、30分くらい話されましたら『一寸待ってください』と仰せられたので、先生のお顔を拝見したところ、キット歯を食いしばり顔面に汗を時に痛みを堪えられているご様子でした。奥様が『今日は冷えますし、ワクチン注射をされたのですから』と心配そうに背中をすすっておられました」。
「暫くの間じっと耐えられた先生が『ああ、やっと出たよ』といわれては羽織られていた丹前の間から瓶を出し振って見せられました。そこには細長い形をした血の塊が浮いており、その割竿程度の太さの血塊が狭い尿道を無理遺り出ると思うと、如何ばかりのお苦しみかと絶句しました」。
「私等は先生の病の苦しみを目のあたりにして、とてもお言葉に甘えてお話を伺うわけにはいかないと、2晩目はそれでも続けようとなされる先生を、奥様とともにお止めした悲痛な夜の思い出があると同時に、『マッカーサーが帰国後は、国民党は東亜連盟党として堂々政治に乗り出す。』」
.. 2020年10月08日 06:46 No.2044001
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