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北の政府も南の政府も人民の支持が無く、お互いが相手を攻めて統一す る事で延命を図ろうとしていた。 本来の指導者、民族派は戦争に反対し、北でも南でも政府から排除され た。その多くが暗殺された。 南軍は朝鮮戦争勃発のほぼ1年前38度線を越えて攻め込んだ。 1950年1月12日アメリカではアチソン国務長官がアチソンラインを発表 し、アジアの防衛ラインが引かれたが、朝鮮半島も台湾もラインの外だっ た。これを見たソ連と中国は米軍は介入しないと判断し、金日成を止める のをやめた。ソ連はあくまで慎重でソ連軍は前もって撤退した。
3.南軍と米軍は釜山周辺に追い詰められるが、戦車が渡れない大きな川 があり、北軍はこれ以上進軍出来なかった。 更に、起死回生の仁川上陸作戦が成功し、国連軍の反撃が成功した。領 土に攻め入られた中国が義勇軍というかたちで参戦し、硬直状態となった。
日本では、国会審議がなく政令で警察予備隊が創られた。 これには旧軍人が採用され、装備も軍隊であった。マッカーサー指令で、 国内及びその他地域の安定のため、とされているから国外進出も想定され ていた。 後藤田正晴は警察予備隊の装備を見て、「これは米軍の歩兵隊だ」と 言った。 社会党の浅沼稲次郎は「反対するな」と脅された。
4.旧海軍軍人が海上保安庁職員として、北軍の設置した機雷撤去作業に 従事し参戦した。死者も出た。 マスコミが反対しないように、大々的レッドパージがなされた。 1950年7月マッカーサーの「共産党またはその同調者を排除せよ」と言 う命令に基き、具体的人選は各社が行った。 朝日72、毎日49、読売34、日経20、東京9、放送協会99、時事16、共同 33という驚く数字の解雇者です。
解雇差止裁判も無く、停戦後の職場復帰も無かった。その時すでに施行 されていた憲法は無視され(米軍の命令の下に位置する), 民主主義の名の もとに、戦犯(旧軍国主義者)が何も反省せず、支配者として政治に復帰 した。今日の日本の姿はこの時に決められた。
5.日本のみならず、世界の姿がこの時決められた。アメリカは産軍複合 体が支配するようになり(トルーマンの次の大統領アイゼンハワーが警告 したように)、膨大な軍事予算が確保できるように常に敵を作るようにな った。
.. 2020年09月20日 08:21 No.2030005
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