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■--東方会議
++ 伝六 (幼稚園生)…1回          

今、西尾幹二のインターネット日録というサイトで満州事変あたりの歴史がのべられています。歴史事実として正確と思います。事実の解釈については、各人が、自分の経験も総動員して考えなければなりません。ところで東方会議というと、名前からすると、すばらしい会議かと思うのですが、出席者の意見は、結局、現今の満州問題の停滞は政府が満蒙政策を確立し、それに従って不変の行動をしなかったことにある。政党間の利害駆け引きでその場限りの手を打ったり、問題の先送りで解決を見送った結果である。ということで、対支基本方針を決定したが、確固たる方針でなかったことが、その後の田中義一首相の張作霖爆殺事件に対する対応でわかる。現実は一筋縄ではいかないが、あまりに情実の部分が大きすぎた感がある。まあ、あとではどうでも言える面があるけれど、ダラ幹?といった感じがしてしまう。
.. 2006年06月22日 22:29   No.2001

++ タク (幼稚園生)…3回       
東亜連盟は、日中戦争の長期化と日本の国力消耗を石原莞爾先生が、「国防の共同、経済の一本化、政治の独立」を条件に、日本と中国および満州国が手を結ぼうという趣旨のもと日中両民族が提携して戦争を速やかな終結を図ろうという思想です。
近衛文麿の東亜新秩序声明を背景に、昭和14年10月に東方会系の農民運動家や満州国協和会系の人々を集めて設立されたのが東亜連盟で日本国内に支部ができただけでなく、汪兆銘の南京政府も自らの立場の基礎理論として、東亜連盟論を積極的に採用していました。
マッカーサーに危険思想であると圧力をかけられてしまいましたね。

.. 2006年06月26日 22:07   No.2002
++ 伝六 (幼稚園生)…2回       
この掲示板では石原莞爾の平和思想のほうに重点があるけれど、満州事変もあまりに誤解されているから、少し書いてみようという意図です。満州事変はその精神においては石原莞爾が中心人物であったけれども(作戦はいうまでもありません)、行動は関東軍の任務の延長線上にあったのではないかと思うのです。あまり研究していないのに、無謀なこころみのようだけれど、あまりに現実を見ない論が横行しているので、まさに文字通り幼稚園レベルで発言したいと思います。
.. 2006年06月27日 20:43   No.2003
++ タク (幼稚園生)…4回       
満州事変を起こしたのは石原莞爾でした。しかし、全面的に日本人が支配する満州国を成立させることには反対でした。だが、満州国の建国と同時に、日本の官僚たちがどんどん満州に入ってきました。また、南満州鉄道が支配力を強め、膨大な利権をめぐって、日本から経済人や野心家が集まってきたのです。日本で食い詰めた浪人も、あるいは旧共産主義で、日本にいられないような人も満州に入りました。その意味では満州は妙な楽土になるわけです。流れ者、野心家、金もうけ屋など、様々な人たちのたまり場になっていきました。そして日本人はそれを食い散らしていくのです。

その中には、石原莞爾のようなアジア解放の夢を持った大陸浪人と称される人々も多々いました。しかし、それは日本の国家利権の人々に支配されて行きました。現地の民衆からも反感を持たれ、中国の人たちからも反感を持たれ、ソ連もますます警戒をかためるような、国際的孤立と危機を招くような満州国がだんだん出来上がっていくのです。これが石原莞爾の理想からかけ離れて行き、裏目に出て行くという形となるのです。

.. 2006年06月28日 06:43   No.2004


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