返信


■--無条件降伏と原子爆弾
++ 伝六 (大学生)…96回          

昔?江藤淳と本多秋五の間に無条件降伏についての論争があった。江藤が、「日本が無条件降伏の結果、ポツダム宣言の規定によって、連合軍の占領下におかれることになったのは、昭和二十年九月のことである」という平野謙の文章について、重大な事実誤認があるといい、「もし日本が『ポツダム宣言の規定』によって降伏したのなら、この降伏は決して無条件ではありえない。」と指摘した。それは、そうだ条件をあげた無条件降伏ということはありえない。しかし、それに対して、本多が反論した。彼はバーンズ国務長官の意見をひいている。「われわれが何故無条件降伏の要求から後退しなければならないのかわからない。われわれの要求は(原子)爆弾を使わない前に、またソ連も参戦しない前に日本に提出したものである。[今になって]もし何等かの条件を、受諾しなければならないのならば、その条件は、日本側からでなくアメリカの方から提出するようにしたいものだ。」と言ったとバーンズが書いているというのだ。論理的には明確でないが、原子爆弾とソ連の参戦があったので、日本を無条件降伏させるべきだという意味のようだ。こういう意見の延長線上にポツダム宣言は関係ねえ、そこまではいわないがまもらなくてもいい、何故なら無条件降伏だからだというゴリ押しとなった。しかしただゴリ押しだと、りっぱな暴力団というよりギャング団だから、微妙な理屈をつけた。ポツダム宣言の条件は完全に実行される。しかし、それは日本との契約関係でなく、われらの政策の一環として実行されるというのだ。結果からいえば、ポツダム宣言の条件は完全に実行されるということはなかった。あきらかになったことは軍隊が無条件降伏したら、約束をまもってくれという主張も無視されるようになるということである。結局軍隊だけんでなく、政府も無条件降伏した。それで、日本国も無条件降伏したのだと多くの人が思い込んだ。アメリカは原子爆弾のおかげで、日本を無条件降伏させることができた思った。それはちがう、原子爆弾によって日本国民は降伏したのではない。パワーポリティクスの手段としての原子爆弾は、力のおごりと狂気によるものであると認識しなければならない。
.. 2009年08月21日 13:04   No.194001

++ タク (社長)…289回       
7月26日、日本に無条件降伏を要求したポツダム宣言が発表された。その降伏勧告文の最後は、「右以外の日本の選択は、迅速かつ完璧な潰滅の道があるのみである」と結ばれていた。しかし、原子爆弾の存在は一言も示されていなかったのです。

日本はポツダム宣言に対して、明確な反応を示し得ず、7月28日、鈴木貫太郎首相は軍の要求もあって「ポツダム宣言は黙殺し戦争を完遂する」という談話を発表した。これが結果的には、アメリカの原爆投下に絶好の口実を与えることになったのです。8月2日、グァム島の航空隊司令部は原爆投下作戦の実施命令を出した。それによると、@攻撃日は8月6日。A攻撃目標は広島中心部および工業地域。B予備目標は小倉中心部と、次いで長崎市、とされていました。

最初、原爆投下目標とされていたのは京都、広島、小倉、新潟の四都市でした。そして、アメリカの統合参謀本部は、まだ原爆実験も成功していない7月3日、これら四都市を絶対に爆撃するなという命令を出していた。原子爆弾ができたとき、その投下の効果をよりはっきりさせるために通常爆弾や焼夷弾による爆撃禁止の処置をとったのです。これらの都市はB29の爆撃から一時的に免れることができた。しかし死の宣告がこれら四都市にくだされていたのである。

その後、かつて京都を訪れたことのあるスチムソン陸軍長官が、「京都は日本の古都であり、日本人にとっては宗教的な意味でも心のふるさとだ」と反対したため京都は目標からはずされ、長崎が代わりに加えられた。また新潟は距離的に遠いことや町が小さすぎるなどの理由で、攻撃直前に目標からはずされたのですね。

.. 2009年08月26日 08:18   No.194002
++ 伝六 (大学生)…97回       
アメリカはハワイを自分のものとし、米西戦争でフィリピンをアメリカ領としたころから、日本を仮想敵国として、戦略をたてた。海軍が主体となってたてた構想は、WAR PLAN ORANGEとなづけられた。国を色分けしたので、日本をオレンジ色にした。対日戦争計画の意味だが、アメリカと米国の二国間の戦争を想定した。卓越した戦略家がいたらしくて、素人が概略を読んでも感心?する。ただ勝つための戦略であって、平和のための戦略ではない。エドワード・ミラーという人が「オレンジ計画」という本を書いたが、そのおわりにこう言っている。
「開戦の三十五も前から、米国は対日戦争を「戦況に応じて必要とされ、あるいは望ましいとされるしかるべき行動によって日本を貧窮と病弊に追い込むこと」と定義していたのである。この戦略がほぼ限界を迎えたとき、原子爆弾はその最後の欠陥、すなわち耐え難いほどに戦争が長引くという可能性を排除することになった。オレンジ・プランの終局は、核の時代の幕開けでったのである。」
いくら軍事的といっても「日本を貧窮と病弊に追い込む」という目標が正しくないから、いくら軍事的に感心?するプランでも天才的ということはできない。しいて言えば悪の天才である。しかし、目標自体がすでに愚である。規模が大きくても偉大な愚である。アメリカははたして自らの愚に気がついているか。日本は負けたのだから、自らの愚を反省すべきだが、結局自ら反省することはなかった。そして偉大な愚についても考察しないで、ただ戦争はいけないと口にしているだけではなかろうか。

.. 2009年08月26日 11:56   No.194003
++ タク (社長)…290回       
日清、日露戦争の勝利によりアジアに台頭した日本を、アメリカ合衆国は、将来の太平洋進出にとっての仮想敵国として、日本を標的としたオレンジ計画を立案しました。それは明確に日本を軍事的に征服するための具体的な侵攻計画です。根本的にはそれはペリー来迎時以来変わらぬアメリカの一貫した政策によるものでした。

米国という新興国家は、18世紀にイギリスによる植民地支配を脱して以来、もともと大陸で平和に暮らしていたモンゴル系原住民を、虐殺しながらその勢力を西へ西へと侵攻して行きました。西海岸に達するとメキシコ領であったサンフランシスコをハリウッド映画となった「アラモの砦」をメキシコ領土内に勝手につくり、守備隊200人をメキシコ軍に攻撃させ見殺しにして、無理矢理戦争に持ち込んでは領土を割譲させたのです。

第二次世界大戦においても同様の手口で、日本を戦争止む無し、という窮地に追い込み、真珠湾にポンコツ艦を浮かべて日本艦隊をおびき出して攻撃させて、自国の兵員達を見殺しにして「リメンバー・パールハーバー!」を叫んだのです。今日においても、湾岸戦争、イラク侵攻に見られる通り、こうしたアメリカの手法はまったく変わっていないのです。

フランクリン・ルーズベルトは、昭和8年(1933)、第32代アメリカ大統領に就任した。生まれながらの排日論者であり、叔父のセオドア・ルーズベルトによる日本打倒のオレンジ計画を信奉していたのです。彼は徹底した人種差別主義者で、日本人に対する憎悪は強烈でした。ルーズベルトは札付きの反日派である陸軍長官ヘンリー・スチムソンと組んで、何とか日本を戦争におびき出すために、次々と無理難題を日本に突きつけて日本が戦争に立ち上がらざるをえないように挑発し続けたのです。日中戦争で日本の国力を弱めるために、アメリカは中国に大量の戦闘機や武器の供与を実行しました。昭和16年には国府軍に、フライングタイガースと呼ばれる300人のアメリカの正規軍パイロットが配置され、真珠湾攻撃以前からすでにアメリカは対日戦争を始めていたのです。

.. 2009年08月28日 16:27   No.194004
++ 伝六 (大学生)…98回       
誤植訂正
アメリカと米国の→アメリカと日本の
開戦の三十五も前→開戦の三十五年も前
幕開けでった→幕開けであった
核兵器はオレンジ計画の終局で登場した。そして戦術的よりも、戦略?的に使用した。自由と平等のアメリカの理想が対外的に、現実の上に作動したことはない。現実の動きはいつも帝国主義であった。しかし個人の自由度は日本より大きいようだ。

.. 2009年08月30日 12:25   No.194005


▼返信フォームです▼
Name
Email
ホームページ    
メッセージ
( タグの使用不可 )
Forecolor
アイコン   ICON list   Password 修正・削除に使用