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12世紀後半の戦乱は一般に源平合戦と呼ばれています。学術用語としては「治承・寿永の内乱」です。この戦いに打ち勝って、源氏の棟梁たる頼朝は鎌倉幕府を開きました。対する平氏についても、京都の六波羅を根拠地に政権を掌握したとして、平氏政権との呼称があります。
ただし諸説があって、平氏政権こそが最初の武家政権だとする見方がある一方で、院政の枠内に捉えるべきという見方もあって一致を見ていません。平氏に政権らしい形が見えてくるのは、保元の乱に続く平治の乱において、敵対した藤原信頼・源義朝の勢力を平氏が打ち破ったときからです。
乱後、源氏の勢力を退け、武力で抑え込んだ平清盛の地位と権力は高まりました。自身は太政大臣となり、その子重盛ら平氏一門も高位高官に就きました。さらに清盛は娘徳子を高倉天皇の中宮とし、彼女が生んだ安徳天皇をわずか3歳で即位させると、外戚として権勢をふるったのです。
平氏一門の知行国を増やして日本全国の半分を占め、膨大な荘園を所有して経済的基盤としています。また日宋貿易も行っています。それ以前、後白河法皇を中心として反平氏の動きが表面化すると、清盛はついに法皇幽閉の拳に出、高位の帰属を多数処罰しています。
武力で後白河を抑え込み、日本全国に支配を及ぼしたことから、これをもって平氏政権が本格的に成立したとする考え方があります。しかし平氏政権は貴族的性格が強く、全国の武士を統合したものではなかったというのです。
特に東国武士との主従関係が弱く、平氏が知行国を東国に拡大すると、政治的矛盾を自ら引き受ける形となり、不遇をもつ武士たちから強い反発を受けました。以上を踏まえれば、平氏政権を未熟な武家政権と呼ぶことが許されるでしょう。
1180年に以仁王・源頼政らが拳兵すると内乱は急拡大し、源頼朝や同義仲らが統合した反平氏勢力は大きな力を持って行きました。平氏一門は次第に追い詰められ、武家政権の性格を深める前に、頼朝の代官である義経に滅ぼされてしまったのです。
.. 2020年05月08日 07:33 No.1920001
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