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石原莞爾は、かねてから満州国は一党専制の国家とすべきとしていました。すなわち一党独裁を考えていたのです。そして、独裁を狙うべき政治団体として、自ら満州国共和会の設立をコミットしました。共和会(石原莞爾平和思想研究会)による一党独裁を実現しようとしていたのです。
「満州国内に堅実なる唯一政治団体を結成して、民衆の支持を獲得し、これにより国家の根本政策を決定しせしむるを、もっとも適切なりと信ず。いわゆる一党専制の国家なり。満州国共和会はこの目的のために設立させられた。」
石原莞爾がこの満州国についての考えをまとめた1932年頃には、まだナチス政権は成立しておらず、その一党独裁国家のイメージはソ連を一つのモデルとしたものと思われます。前述のように、石原莞爾ブレーンの一人だった宮崎正義はロシア留学経験があり、ソ連の国情にも精通していました。
その後は、イタリア・ファンシズムやドイツ・ナチズムも念頭に置かれるようになりました。「満州国独立の完成には、ファッショ的団体の結成を必要とす。」指導的政治団体の主張は、この満州国による一党独裁の構想を、何らかのかたちで日本国内に持ち込もうとする指向性を持つものでした。
ちなみに、のちの論号「昭和維新方略」では、「天皇親性の基に新組織体を結成し、いわゆる一国一党の方式の下に皇国政治の指導をなす」と記されています。明確に「一国一党」すなわち一党独裁の方向を指向しています。この石原莞爾の一党独裁の考えは、永田鉄山には見られないものでした。
永田鉄山は陸軍が独自に国策の具体案を作成し、これを陸相通じて内閣に強要する考えは持っていました。また、一種の受験法によって立法権を大幅に内閣に移し、陸軍の国際案を実施させる方向も検討していましたが、一党独裁を考えていた形跡はありません。ただ、独裁制下における機動的な工業化と軍事指導の実態については認識していました。
たとえば、ソ連の「独裁化の統制国家」において、飛行機生産や戦車生産とそれに転用可能な農業用トラクター生産に工業化の重点が置かれていること、また戦車と飛行機の戦略的に集中しようがなされていること、などの情報は得ていました。しかし、永田鉄山自身は独裁論に言及しておらず、一党独裁論は陸軍では石原莞爾独自のものだったのです。
.. 2020年04月23日 08:43 No.1909001
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