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■--石原莞爾の天皇観2
++ 河野 信 (幼稚園生)…2回          

石原莞爾の天皇観  2
   英霊が泣いている

石原莞爾は昭和14年12月、舞鶴要塞司令官という閑職に転補されました。舞鶴は京都府の日本海側、海軍の軍港のある小さな町です。当時の常識から言って、参謀本部の作戦部長から、関東軍参謀副長を経ての転補は大左遷でというしかありませんでした。
 然し、石原は平然としてこの閑職に着いたのでした。
 
 然しこの閑職にあっても石原が、心を悩ます一つの問題がありました。それについては当時、朝日新聞記者であった田村真作に語ったとされる記録に残されています。
 「副官がいろいろと弔辞を書いてくれるのだが、読んでみると、名誉の戦死だとか何だ とかしらじらしい言葉が並んでいるので、どうも気が咎めて、どうしても読めない。仕 方がないから、そのまま読まずに、霊前に置いて帰ってくる。許してくれ、と私は心の中で詫びるが、遺族たちの顔を見ると、気の毒でたまらない。これが一番つらい」
(山口重次『悲劇の将軍石原莞爾』昭和50年大湊書房)

 山口重次は、石原莞爾の心を忖度して、次のように述べています
 「(指導者は)自分たちの野心を満足させるため、起こしてはんらない戦争を起こして、 多くの犠牲者をだした。…それよりも、今すぐにでも戦争を中止すべきであるのだが、 この人道的、道徳的態度をとることが、屈辱のように考えられていた……」(前掲書)

 時流に逆らえない当時の日本人は、真実の心を押し殺して「名誉の戦死・天皇陛下万歳」と叫んでいました。「時流に乗る、勝ち馬に乗る」日本人の習性は平成の現在でも変わっていません。
  
.. 2006年09月04日 08:19   No.19001

++ 河野 信 (幼稚園生)…3回       
   戦陣訓 (せんじんくん)

 戦争中、この言葉一つによってどれだけ多くの兵士が、無駄死にしたでしょうか。その数は何万でしょうか、何十万でしょうか。百万以上でしょうか。
無駄死にした兵士は「戦陣訓」の文中の次の言葉によって死んだのです。その言葉とは
 「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪過の汚名を残すことなかれ」
  {戦って捕虜になることは恥ずかしいことである。敵の捕虜となるくらいなら、いっそ死んでしまえ}                              と諭しているのです。
 アリュウシャン、ガダルカナル、サイパン、硫黄島、フィリピン、レイテ,インパール、沖縄等で多くの兵士が「万歳突撃」を敢行し、屍を野辺に晒しました。悔やんでも悔やみきれません。

 この人命無視の「戦陣訓」は昭和16年1月、東條英機陸軍大臣の名で全陸軍に配布されたのです。当時、日中戦争はいつ果てるとも知らず、泥沼化して4カ年にも及び、ノモンハン事件ではソ連軍に大敗し、軍部は何とかして兵士の志気を奮い立たせる必要に迫られていたのでした。

 石原莞爾は当時京都の第16師団長でしたが、断乎としてこの「戦陣訓」に反対し、京都師団の将兵にこれを読ませませんでした。何故石原が陸軍大臣の布告に反対したのでしょうか。
 反対の唯一絶対の理由は、臣下である東條が配布した「戦陣訓」が、明治天皇がお下しになった「軍人勅諭」を無視したことになるからです。当時の兵士たちは、一日に一度「一つ、軍人は忠節を尽くすを本分とすべし。一つ、軍人は武勇を尊ぶべし……」という「軍人勅諭」を奉唱させられていました。(私もその一人でした) その上に「戦陣訓」が加わったのです。石原は「戦陣訓」は、この「勅諭」を無視したものであり、天皇統率の本義を蹂躙した不敬きわまるものであると激怒したのです。

 ここに石原莞爾の天皇観が現れています。

 尚、石原のこの処置に対して、東條英機陸軍大臣の猛烈な圧迫が加わり、その年の3月、石原は待命となり陸軍から去らざるをえなくなったのでした。

.. 2006年09月04日 10:47   No.19002


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