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石原莞爾の天皇観 2 英霊が泣いている
石原莞爾は昭和14年12月、舞鶴要塞司令官という閑職に転補されました。舞鶴は京都府の日本海側、海軍の軍港のある小さな町です。当時の常識から言って、参謀本部の作戦部長から、関東軍参謀副長を経ての転補は大左遷でというしかありませんでした。 然し、石原は平然としてこの閑職に着いたのでした。 然しこの閑職にあっても石原が、心を悩ます一つの問題がありました。それについては当時、朝日新聞記者であった田村真作に語ったとされる記録に残されています。 「副官がいろいろと弔辞を書いてくれるのだが、読んでみると、名誉の戦死だとか何だ とかしらじらしい言葉が並んでいるので、どうも気が咎めて、どうしても読めない。仕 方がないから、そのまま読まずに、霊前に置いて帰ってくる。許してくれ、と私は心の中で詫びるが、遺族たちの顔を見ると、気の毒でたまらない。これが一番つらい」 (山口重次『悲劇の将軍石原莞爾』昭和50年大湊書房)
山口重次は、石原莞爾の心を忖度して、次のように述べています 「(指導者は)自分たちの野心を満足させるため、起こしてはんらない戦争を起こして、 多くの犠牲者をだした。…それよりも、今すぐにでも戦争を中止すべきであるのだが、 この人道的、道徳的態度をとることが、屈辱のように考えられていた……」(前掲書)
時流に逆らえない当時の日本人は、真実の心を押し殺して「名誉の戦死・天皇陛下万歳」と叫んでいました。「時流に乗る、勝ち馬に乗る」日本人の習性は平成の現在でも変わっていません。
.. 2006年09月04日 08:19 No.19001
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