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岐阜の県名は、もともと織田信長が中国の故事に習って命名したものですが、信長は天下統一の拠点として、「美濃を制する者は天下を制する」と岐阜を重視しました。戦国時代の情報の通過地点で、東西の交通拠点でもありました。
美濃人は、どけ地の名古屋人を相手に商売してきた国柄であるから、商売にきわめてしたたかで、策略・奇策が飛び出すところでもあります。利に聴く、要領よく立ち回る。商売においてもこの性格が極端に発揮されています。
日本三大美祭の一つ、高山祭りは、豪華な屋台が練り歩き、動く陽明門といわれるほど美しいです。高山祭に使用する山車は8メートルという豪華絢爛な巨人なもので、祭りを彩るからくり人形は、まさに飛騨匠の技術の結晶といえるでしょう。
岐阜市は、東京、大阪に次ぐアパレルの産地です。岐阜駅前には、約1200社の繊維問屋が集積しています。もともと中国や朝鮮から引き揚げた人たちが中心になって衣料品を扱ったのが始まりで、いまやアパレル製品の供給地となっているのです。
関市は、日本のゾーリンゲンと呼ばれる刃物の生産地です。関市を核とする中濃に約180社の中小企業が集中し、国内屈指の産地を形成しています。鎌倉時代により刃物生産が始まり、現在では国内シェア40%。しかし少年犯罪にナイフが使われたことで注文が軽減し、地場産業に大きな痛手となりました。
瀧井孝作(1894〜1984)は岐阜県生まれ。雑誌『改造』の記者として志賀直哉に出会い、小説家になることを決意します。大正11(1922)年、志賀の住んでいた我孫子に転居し、小説『無限抱擁』を書き上げ一躍有名になります。
この作品は彼自身の実体験に基づくもので、小説家を志す男が思い続けた女と再会して結婚し、作品もようやく評価されるようになりますが、妻は肺病で亡くなってしまい、傷心の男は友人の住む我孫子に転居します。
沼沿いの丘の上には松林が続き、まだ電灯がなくランプのみで生活していた様子が描写されています。瀧井は『無限抱擁』を書き上げた後、志賀を追うように大正12(1923)年、我孫子を離れました。現在、この場所の一部は寿古墳公園になっています。
.. 2020年04月10日 09:41 No.1898001
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