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民主党,社民党、国民新党の連立政権が出来てから2ヶ月が過ぎようとしている。 その間に、目に見える変化はあまりないが、期待感は高まっている。 特に、これまで聖域となっていていかなる不祥事があろうと手付かずだった原子力関連予算に「見直し」の手が入る可能性が出てきている。 本来原発は、電力会社の所有物であり、その技術開発はほとんど全て終わっている。現段階で出来ていないことは今後も実現可能性はほとんどない。この場合の「実現可能性」とは、現在の試験研究分野の商業ベースでの技術開発か、画期的な新技術の開発を意味する。 自立した産業ならば、国の予算は必要ないはずである。しかし実際には莫大な予算が組まれている。
原発と核兵器
原発の原型は核兵器の開発手段としてスタートし、その途中に原潜などの核動力兵器開発の中で技術開発が進められた結果の副産物である。どちらにしろ採算概念がまるで異なる世界のものである。核兵器など兵器開発では採算ベースよりも他との代替性が問題となる。つまり他に換えがたい能力や威力が重要視されれば、採算は代替物がないかぎり度外視される。 核兵器に勝る威力の兵器はみあたらない。また、原子力動力のように無補給で何年も稼動を続けられるエンジンも存在しない。 これがキロワットあたり廃棄物処理費用なども含めてどのくらいのコストがかかるかを厳密に損得勘定する電力の生産現場(ただし原発以外)とは全く異なることくらいは誰にでもわかるであろう。 しかし核兵器国の軍需産業はそうも言ってはいられない。 核兵器開発だけでは必要な量を生産できれば、それ以上の設備はいらなくなってしまい、さすがの採算度外視でも利益が見込めなくなる。 そこで登場するのが「原子力の平和利用」というドグマである。 成立しない教義を世界に押しつけた最大の理由は、核の拡散である。 もっとも核兵器としてではなくねらいは原子力発電所であったが。 教義が成立しない理由は言うまでもない。廃棄物管理能力の欠如と廃棄物管理費用の重さとウランそのものの採算ベースでの枯渇である。ウラン資源は石油よりも短命であり、逆立ちしても石油代替燃料になるはずがない。なお、高速増殖炉計画は金がかかりすぎる上あまりにも危険で、深刻な核拡散をもたらすために、永久に実現不可能である。 廃棄物管理は、米国もドイツも現在の立地場所は埋め捨て方式の地下処分が不可能との結論に達したように、決め手に欠いている。まして火山国で地殻変動地帯のまっただ中の日本にそんなことができる場所などありはしない。 こんなことさえもろくに検討もされずに、毎年何千億円もの原子力予算が湯水のごとく投じられてきた。八ッ場ダム何基分か。
.. 2009年12月02日 06:19 No.189004
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