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昭和12年9月、石原莞爾は参謀本部作戦部長の職を解かれ、関東軍参謀副長に転じました。これは誰が見ても左遷です。言ってみれば日本軍全体の作戦を統括する責任者が、関東軍の作戦を担う参謀長の下に送られたのです。
むろんこれはこの年の7月から始まった日中戦争に対して、省部が拡大の一色に染まっていくのに対し、不拡大を主張し続けた石原莞爾に対する嫌がらせ、あるいは軍内から追い出そうとの意思があったともいえます。しかも石原莞爾の上司の参謀長には、東條英機が座っていたのです。
日中戦争の拡大を企図する陸軍大臣、参謀総長らは石原莞爾を東條英機の下に置いて、軍内で人望を集めている石原莞爾を監視させようとしたともいえます。この人事に石原莞爾は、「私は陛下の軍人である。何れの任に就くとも決して左遷ではない」と語っていました。
この頃から石原莞爾の秘書役を担った高木清寿によると、石原莞爾は淡々とした心境で関東軍に赴任していったと言います。東條英機と石原莞爾は、隣り合わせの部屋で執務をするのですが、二人はめったに顔を合わせないし、執務上の打ち合わせはほとんど副官を通じて行ったと言います。
参謀長、参謀副長の副官だった泉可畏翁は、二人に仕えたときの苦しさを高木清寿に語っています。関東軍参謀たちの起案した書類をまず参謀副長の石原莞爾のもとに持っていくと、石原莞爾はそれを丁寧に読み、鉛筆で修正していきます。すると、それらの起案文書はたちまちひとつの意思を持つことになったと言います。
石原莞爾は満州国に対して、日本は内面指導権を持っていますが、それはあくまでも助言者としての立場であり、その決定には直接は関わらないというのです。それをもとにつくられた起案文書を、泉は東條英機のもとに持って行きます。すると面白いことになります。
泉はこう証言してくれたうえに、その経緯を文書化しています。「東條さんは真っ赤な顔をして、石原さんの書き込んだ部分を消しゴムで消すのです。なんとしても石原さんの書いた部分を生かすまいというわけです。石原さんへの対抗意識というより、人物の器の違いが出ていましたね」泉も軍人だから、二人の置かれた立場はよく知っています。
.. 2020年02月16日 09:08 No.1849001
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