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■--石原莞爾流
++ 伝 (大学院生)…100回          

石原莞爾は人にレッテルをはったり、レッテルで人を見ることをいましめた。昭和九年、彼が仙台で連隊長をしていたとき、第二師団の特命検閲がおこなわれた。ところが、石原の連隊は検閲をやらない、彼いわく、「検閲か。検閲で特別に部下にやかますぃくして自分の成績をあげようなどとする奴に限って平常なまけている奴さ。そして戦場にのぞんで部下を殺し、下手な戦争をする奴さ。軍人はつねに戦場にある気持が大切だ。だから検閲などといって特別なことを私はやらない。特命検閲使が来たら平常のままの連隊を見てもらうだけだ。それが本当なんだ。」(しかり、それがほんとうです)
 ところで、どこの連隊本部でも連隊の将校の素行身上を調査したいわゆる閻魔帳がある。石原連隊長は、これをすっかり白紙にしていた。特命検閲使荒木貞夫大将は閻魔帳の提出を命じた。ペラペラとページをくる。何枚繰っても白紙である。荒木大将は怒った。何だこれは。彼いわく「石原は当連隊に来てまだ一カ年にもなりません。部下全員の素行等もちろんわかるものではありません。それゆえ当然白紙にしておきました。石原はこんなものは無用と信じます。将として部下を信ずることのできない馬鹿者だけがかかることに拘泥するものと信じます。」荒木大将の驚いたこと。地雷をふみつけたより驚いたと伝えているが、これは伝えたものの形容詞だろう。荒木大将が二の句をつげなかったのは本当らしい。石原の連隊だけは検閲はあっさりすんでしまった。荒木大将が石原をどう思ったかはわからない。
.. 2009年05月16日 21:32   No.184001

++ タク (社長)…280回       
石原莞爾は若い頃から思い切ったことを言えるだけの思想というか考えがあったのですね。
東條英機にもはっきりとモノを言えるのがよくわかります。
石原莞爾が、新聞記者に『閣下は東條参謀長とは対立しているようですが』と言われた時に、
『対立ですか、それは可笑しい。私には思想があるが、東條には思想がない。だから対立するわけがないじゃないか』
と言ったのを私は父から聞いている。
東條英機は努力家で、権威がとても好きで、手帳を何冊も所持していて、必ずメモを取る几帳面な事務屋です。

石原莞爾から見れば、上に立つ人間は大局観が大事だと思っているので、手帳の整理ばかりしているのは、人の上に立つ者のすることじゃないと思っていたのです。
石原莞爾には、世界最終戦争論という思想がありますが、東條英機にはそのようなものはなく、権威だけに頼り、憲兵を使ってスパイ活動だけを行っているのです。
石原莞爾からみれば、国外が大変なときに国内で盗聴ばかりやっているのはまともな軍人のやることではないと体質的にも合わないのですね。

.. 2009年05月21日 18:48   No.184002
++ 六 (大学生)…92回       
東条英機に限ったことではないだろうが、彼が陸軍大臣だったころの話がある。部下が計画書類をもっていくと、パラパラめくって、「この書類の内容は、なっちょおらん!」といってつっかえすことが多かった。(たぶん嫌いな者に対してはその頻度が大きかったであろう)。交通課長をしていた鎌田大佐は対策を考えた。用意した企画書を東条大臣にさしだすと、「ダメだ内容が杜撰だ」といわれる。そうくることは計算にいれている。「ハイッ!恐縮いたしました。よく熟考の上、再検討いたします。」実は、あらかじめ不必要なことを重複記入しておいたので、その部分を鉛筆で、抹消の線をひいて、同じ書類をもって、再び大臣室に入る。「大臣!よく検討の上、訂正してまいりました!」大臣は眼がねごしに見て、書類のページをパラパラとめくる。「ウン、よかろう」ハンコをパンとおす。どうしても通したいことなら、そういう策も必要だろうが、大臣が自分の感情を優先させてはいけないという反面教師だろう。
.. 2009年05月24日 17:33   No.184003
++ タク (社長)…281回       
盧溝橋事件の勃発したとき、石原莞爾は不拡大方針を採ったが、武藤章、田中新一らの拡大派を制御すねことができず、逆に石原莞爾追い出しの策動によって関東軍へ転出するに至ったのです。

自らが思い描き、成長を夢見た五族協和の満州国とはおよそかけ離れた満州国の姿でした。日中戦争拡大を阻止しようとして参謀本部を追われ、王道楽土としての満州国の現実に裏切られた思いの石原莞爾は、激越な口調で関東軍と日系官吏が統治する満州国への批判を繰り広げていくのです。植田謙吉関東軍司令官に対して日系官吏の減棒や人員整理を要求し、協和会中央本部長橋本虎之助中将を猫之助と呼んで公衆の面前で罵倒します。東条英機関東軍参謀長を上等兵とこきおろすとともに、内面指導権を掌握する関東軍第四課長片倉衷を皇帝凌ぐ満州国の王様と皮肉ります。また、関東軍司令官の豪壮に官舎をさして「泥棒の親分の住宅を見ろ・・・満州は独立国のはずだ。それを彼らは泥棒した。満州国皇帝の住居は、国民の現状から住居の修築を遠慮しているのに、泥棒根性の日本人はこれを不思議とも思っていない」と痛罵し、植田関東軍司令官に宿命の移転を具申したのみならず、軍司令官として不適格であると直言したのです。

こうした言動が関東軍首脳や日系官吏との間に激しい感情的対立を引き起こし、とりわけ東條英機との確執は憎悪ともいえるほど激しくなり、同志といえる関係を続けてきた片倉衷とも修復しがたい亀裂を迎えてしまったのです。

.. 2009年05月25日 18:38   No.184004
++ 六 (大学生)…93回       
「将軍は農村文化の向上、農法の改良には不断に着目し、実績を見てこれがよいとなるとただちに普及奨励したものである。その後大井上康氏の栄養周期の農法、発酵素による自給肥料の増産等、つねに「より優れたものより、より優れた方法」に着目しては、火の如き熱意をもって普及奨励に努力してついに一生を終わるまでやまなかった。こんな軍人は明治このかた一人もいなかった。」という。軍人だけでなく、なかなかそういう人はいない。まわりにあわせていてはだめだ。もっとも、さぼっている人はまわりにあわせないといけない(笑)。しかし、見習いたいものだ。
.. 2009年06月03日 22:06   No.184005
++ タク (社長)…282回       
満州開拓団は日露戦争以後の大陸進出政策の展開の中で、国内、とくに農村不況の打開と北辺防備という一石二鳥の効果を狙って国策の名のもとに推進されてきました。満州事変後の「満州国」建設は、石原莞爾将軍の下、五族協和、王道楽土というスローガンの下で平和な日々を過ごしていた豊かな満州国だった。

だが、石原莞爾が左遷されてからは東条英機率いる関東軍がはびこるようになり、太平洋戦争に突入すると、軍事的、産業的要請に基づいて戦時施策の重点として奨励されたのです。まさに日本民族の大移動であった。そして国策に従い、新天地開拓の理想に燃えて渡満した素朴な農民たちを待ち受けていたのがこの悲劇な運命だったのです。

そしてこの悲劇を招いた直後の原因は、五族協和(満州・モンゴル・中国・朝鮮・日本)を標榜しながらも、日本人の指導意識が露骨にあらわれたこと、さらに開戦後、労務供出、糧穀出荷といった強制が現地の人の反感を買ったことにあり、それが日本の敗戦とともに報復行為にかりたてたといえるでしょう。しかし開拓団の場合、現地の農民の間には、同じ土地に生きることの親近感から、悲惨な開拓団民に対して恩讐を超えて暖かい救いの手を差し伸べた人たちも決して少なくなかったの事実です。

.. 2009年06月04日 19:21   No.184006


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