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■--石原莞爾と武藤章
++ 伝六 (大学生)…93回          

いま、「比島から巣鴨へ」という武藤章の書いた本を読んでいる。石原莞爾と武藤章の共通点は陸軍大学を一回でパスしたことであることを発見した。(笑)しかし、比較にならない点がある。石原莞爾は受験勉強を全然しなかった。少なくとも本人はそう言っている。武藤章は短期間だが、陸大を受けろといわれてから受験勉強をしている。石原莞爾は合格したのは何かのまちがいだったろうと言っている。これは彼一流の言い方でなく本当にそう思っていたかもしれない。陸大合格がむつかしかったことは、阿南大将は四回目で合格している。剣道の推薦入学があれば、合格だったろうが。
.. 2009年02月13日 22:19   No.178001

++ タク (社長)…273回       
陸大教育の内容を考えていくと、石原莞爾のようなユニークな人材が出たのは希有なことです。石原莞爾は授業を殆どサボって、毎日別の本を読んでいました。試験前にザッと見るだけで、それでも陸大を二番で卒業しています。陸大出には珍しい戦略家タイプです。対米開戦時に東条英機の副官を務めた西浦進氏は戦後になって、同期の堀場一雄、服部卓四郎と三人で、戦時中の陸軍の名将を五人選んだことがあったそうです。そのとき全員一致で石原莞爾を一位に選んでいます。ちなみに二位は板垣征四郎、三位は阿南惟幾、四位は今村均、五位が安達二十三の順でした。

国防政策担当者という立場で見ても、石原莞爾は天才的です。それまで日本の国防計画は、国防方針と軍備充実計画、そして年度作戦計画しかありませんでした。そこにはじめて戦争指導という概念を導入して、実際に長期にわたる戦争指導計画を作り、参謀本部に戦争指導課を作ってしまうのです。しかも、総力戦を想定して軍備を整えるためには、産業計画を国防計画体系の中に組み込むことで軍備充実を図っていくしかありませんが、それを考えていたのは石原莞爾だけでした。

石原莞爾はそういった産業計画を組み込んだ国防計画を、軍だけで遂行できると思っていましたが、そのことについては後で「間違えた」と言っています。戦争指導課にしても、後に参謀本部第二十班になったり参謀次長直轄になったりと、石原莞爾の思惑通りにはなかなか進みませんでした。結局、戦争指導課は石原莞爾が作戦部長から飛ばされた後、武藤章によって班に格下げとなり、昔の作戦課に吸収されてしまうのです。石原莞爾と東條英樹は犬猿の仲でしたから、当然のことでした。

.. 2009年02月15日 07:16   No.178002
++ 伝 (大学生)…98回       
山下大将が大本営の命をうけて、フィリピン防衛の任務にむかうとき、米軍来攻の場合は海軍と航空軍が決戦し、陸軍部隊は米軍の上陸地付近にある部隊のみが、これに参加協力するという計画であった。ところが、山下大将が着任してから10日後、十月十八日、米軍はレイテ島に上陸をはじめた。(武藤は二十日参謀として着任すると同時にこの話を聞いた。「それはおもしろい、しかしレイテはどこじゃ」と言ったとか。つまり、突然に近い参謀任命だったわけである。)すると、寺内元帥は、山下大将ひきいる第十四方面軍にレイテ島に兵力をおくるよう命令した。レイテ島に兵力を送るには、船が必要である。そういう準備はしていない。大本営から命令をきいて赴任した参謀達は憤慨して、南方総軍司令部に命令の真意をといただしにいったが、大本営の命令だとの答えであった。「承詔必謹」ということで、憤慨をおさめたらしい。「承詔必謹」とは、詔を承けては必ず謹め、と読む。軍隊の命令は詔ではない。だからこういうケースで「承詔必謹」ということばをつかうのはまちがっている。しかし、これは武藤のまちがいというよりは、かなりひろくいきわたっていた誤解のように思う。
.. 2009年03月07日 15:58   No.178003
++ タク (社長)…276回       
レイテ海戦で栗田艦隊が突入をやめてしまったよなぁ〜

石原莞爾自身が戦後、外国人記者の質問にこう述べています。

私が戦争指導をやったら、補給線を確保するため、ソロモン、ビスマーク、ニューギニアの諸島を早急に放棄し、戦略資源地帯防衛に転じ、西はビルマ国境から、シンガポール、スマトラ中心の防衛線を構築し、中部は比島の線に退却、他方、本土周辺、およびサイパン、テニヤン、グアムの南洋諸島をいっさい難攻不落の要塞化し、何年でも頑張りうる態勢をとるとともに、外交的には支那事変解決に努力を傾注する。

とくにサイパンの防衛には万全を期し、この拠点は断じて確保する。日本が真にサイパンの防備に万全を期していたら、米軍の侵入は防ぐことができた。米軍はサイパンを奪取できなければ、日本爆撃は困難であった。それ故サイパンさえ守り得ていたら、ボロなガタガタ飛行機でもなんとか利用できてレイテを守り、当然五分五分の持久戦で断じて負けてはいない。と聞いてマッカーサー司令官も驚いたと言う。

.. 2009年03月08日 08:20   No.178004
++ 六 (大学生)…88回       
十月二十二日、山下大将が寺内元帥からうけとった命令の要旨は、武藤章によれば、
1、驕敵撃滅の神機到来せり
2、第十四方面軍は海、空軍と協力し、なるべく 多くの兵力を以てレイテ島に来攻せる敵を撃滅 すべし
というものであった。後世から見れば、神機到来せりには、あきれるほかないが、退却のことを転進と言ったのと同じ語法かもしれない。大本営の愚な作戦変更と栗田艦隊謎?の反転は、好??一対ではなかろうか。ド素人の印象である。

.. 2009年03月08日 10:37   No.178005
++ 伝六 (大学生)…94回       
日暮吉延の解説によると、「1937年3月、参謀本部第一部長の石原莞爾少将に求められて第一部第三課長となった。だが日中戦争をめぐって武藤大佐は「対支一撃」の拡大方針をとなえ、不拡大派の石原と激しく対立した。」とある。石原莞爾の引きで武藤章が部下になったとははじめてきいた。ほんとうだろうかと思うが、武藤の考えと石原の考えは、基本的なところでちがっている。支那事変について、武藤は「満洲事変の発端は口火が支那軍の満鉄爆破にあったとしても、真の原因は支那の国権回収、失地回復の民族運動と日本の大陸発展の衝突であって、実は大和民族と支那民族との民族的抗争と見るべきものであった。」と書いている。これは、そういう考えでいた人が中国人にも日本人にもいたであろうし、その意味でわかりやすいのであるが、当時シナ大陸で作用していた力についての洞察を欠いている。あまりに一面的な考えである。
.. 2009年03月11日 20:17   No.178006
++ 伝六 (大学生)…95回       
「戦陣訓」については、武藤はこんなことを書いている。「この原案は教育総監部が永い間かかって研究し、民間学者の意見をも徴したのであった。この発布の形式に就いてその後非難する向もあるが、あれは軍人軍属全般に通ずるもので、軍人軍属を統督する陸軍大臣が出すのが至当である。」これも形式的な考え方である。生きて虜囚のはずかしめをうけずなどと机上論(きびしくいえばそうなる)を言ったおかげで、日本兵は俘虜にならないというたてまえになってしまった。そこで、俘虜になった場合の心得が日本兵には全然なかったので、どういう心理かはわからないが、味方の不利になるような情報をしゃべったりしたらしい。また戦争末期には、一部ではあろうが、病気ケガで足手まといになった兵は射殺せよという冷酷な命令があったことを伝える人がある。一体戦陣における心得などは死地に立ったことがある人か、それと同等の体験をつんだ人が教えるべきことであって、そうでない人の言うことは無用である。フィリピンで地獄を見たはずの武藤章がこういうことを言うのは理解できない。結局形式でしか現実をみなかったのではなかろうかとあやしむのである。
.. 2009年03月14日 11:37   No.178007
++ 伝 (大学生)…99回       
元駐米大使朝海浩一郎氏の「私の履歴書6」(日本経済新聞s63・3・6)のなかに、米軍将校から聞いた話として、米軍から見た日本軍の姿が書かれている。「まず日本軍の捕虜である。捕虜になると、これで一生が終わったと絶望してか、はなはだしいのは・・・(日本軍)攻撃に、重大な手がかりを与える情報を米軍に提供してくれた。・・・・捕虜については国際条約があり、自分の姓名と一定のこと以外言わなくてもいい。・・・ところが日本の軍隊は捕虜になることを否定しているから、捕虜になってもこれだけしか言わなくてもよろしいというような教育は一切ない。このため捕虜を通じて非常に貴重な情報を手に入れることができた。」。米国が国際条約をどの程度守ったかという問題は別にして、国際ルールと無関係に戦った面があったと考えられる。
.. 2009年03月23日 20:00   No.178008
++ タク (社長)…277回       
昭和18年2月のガダルカナルからの転進は、国民には退却ではないかという疑問を抱かせました。さらに、この年の4月に起きた山本五十六連合艦隊司令長官の戦死は、国民に大きな衝撃を与えるとともに、戦争の前に立ちはだかってきた暗い不吉な前兆を感じさせたのです。5月から6月にかけて、アリューシャン列島のアッツ島では、5000名の守備隊が、2万をこえるアメリカ軍の攻撃を半月以上も耐えましたが、ついに玉砕するに至りました。「玉砕」という新造語は、大本営発表が作り出した用語です。「玉砕」という用語から、国民は全滅という事態の深刻さをはっきりと解ってしまったのです。

生きて虜囚の辱めを受けることを最大の罪悪と決め付けている先陣訓がある限り、孤島に敵軍が押し寄せてくれば、玉砕は必至です。昭和16年1月、中国戦線における軍規弛緩を矯正するためという理由で、時の陸軍大臣東条英機のもとでつくられた先陣訓は、一人一人の兵士の生命を死に導いていったのです。そして、沖縄戦に至るまで、その玉砕の悲劇は次々と繰り返されていったのです。

.. 2009年03月28日 06:54   No.178009
++ タク (社長)…278回       
石原莞爾はそういった産業計画を組み込んだ国防計画を、軍だけで遂行できると思っていましたが、そのことについては後で「間違えた」と言っています。戦争指導課にしても、後に参謀本部第二十班になったり参謀次長直轄になったりと、石原莞爾の思惑通りにはなかなか進みませんでした。結局、戦争指導課は石原莞爾が作戦部長から飛ばされた後、武藤章によって班に格下げとなり、昔の作戦課に吸収されてしまうのです。石原莞爾と東條英樹は犬猿の仲でしたから、当然のことでした。

東条英機は当時の軍事課長武藤章に命じて、東亜聯盟協会自体を解散させました。武藤は喜んでその仕事を引き受けたと思われます。しかし、その命令は予想すべき結果を見落としていた。というのは、組織が単に東亜連盟同志会と名前を変えただけで、技術的に禁止をすりぬけたからです。だが、1941年夏までに、政治勢力としての東亜連盟運動は、もはや存在しなくなっていました。東亜連盟の出版は禁じられ、協会員の多くは政府の脅迫を受けました。投獄された者もいれば、実際に警察の拷問を受けた者もいるのです。

.. 2009年03月28日 07:43   No.178010


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