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■--形式主義
++ 伝六 (大学生)…92回          

大東亜戦争開戦前、山下、今村、本間の三将軍は、杉山参謀総長から、軍司令官任命の内意をうけ、作戦計画を内示せられた。このとき山下、今村の両将軍は、何も質問しなかったが、本間将軍は、マニラ攻略が上陸後四、五日と予定されている根拠をただした。杉山は参謀本部の作戦計画にケチをつけられたと思い、「参謀本部の研究の結果である」と声をあらげて、根拠は言わなかった。そして「この任命がいやなのか」と不快そうに洩らしたという。これは下の者は黙って命令をきいておけばよいということだろうか。いい加減負けがこんできたときの話でなく、開戦当初でこうだから、負けはじめると実行できない命令をだしたりするようになるのは当然である。今の社会ではありえないような話だが、形をかえて、今でもそうとうありそうに思う。
.. 2009年02月05日 19:46   No.177001

++ 伝 (大学生)…94回       
上の話は真偽のほどはもちろん知らない。まちがっていたら、杉山大将に気の毒だが、ありそうな話である。参謀本部の研究の結果であって、自分もその根拠を知らないということであったかもしれない。杉山大将の後に東条大将が参謀総長兼務ということになる。日本のベストマンの能力が必要なときに、お先真っ暗の指揮となってしまった。今だってそうだ、風評では政治家の知的能力は低いそうだから、知恵者の発見に力をいれてもらいたいものだ。口は災いのもとというので、言って益のあることを言うべきであるが、思ったことをかいておこう。
.. 2009年02月07日 16:44   No.177002
++ タク (社長)…272回       
開戦前、天皇陛下は明らかに杉山元を信用していません。杉山元を昭和16年9月に、永野修身海軍司令部総長とともに、「南洋作戦だけは三ヶ月で片付けるつもりであります」と展望を語っています。それを聞いた昭和天皇は、支那事変のときは一ヶ月で片付くと言ったのに、四年たっても片付かないではないか、と叱責するのです。

昭和天皇は杉山元を替えて欲しかったのですが、更迭を命じなかったのは、田中義一のときのトラウマがあるからだと言います。昭和3年、張作霖爆殺事件を軍部が起こした時、田中義一首相は軍部の抵抗にあって関係者に厳罰をくだすことができなかった。その弱腰を昭和天皇が怒り、「それでは前と活動が違うではないか。辞表を出してはどうか」と直接、叱責して、田中内閣は総辞職を余儀なくされた。これは立憲君主制の枠をはみ出した行為で、その反省以降、天皇陛下は人事に口を出さないよう自制しています。

天皇陛下にあそこまで言われたのですから、杉山自身が恐縮して辞めなければいけなかったのですが、辞めないばかりか、奏上の時刻にも遅れてきて失礼な態度をとっています。杉山元があんなに不遜な態度をとれる理由が知りたいです。絶対的な権力で軍を押さえていたわけでもないようですし、単に時々の主流派にくっついて泳いで偉くなっただけの人なのです。

.. 2009年02月10日 06:45   No.177003
++ 伝 (大学生)…96回       
昭和20年9月29日の木戸幸一日記に、昭和天皇が話されたこととして「又支那事変の当初、天津に事変の起こりたるときは、参謀総長宮と陸軍大臣(杉山元)を呼び(これは世間にはカンチャヅ事件につき御召になりたる様伝へあり)、何とか蒋と妥協せしむることにつき下問せむとせしが、頭から一挙に解決し得との奉答なりし故、手の下し様なかりしこともあり、今日から思へば実に残念なり、との御述懐ありたり」とあるのにみれば、四年たってもまだ片付かんではないかというのは、よほどセーブされた言い方だったわけですね。「戦争の途中に於いて今少し陛下は進んで御命令ありたしとの希望を聞かざるには非ざりしも、努めて立憲的に運用したる積りなり」とこの時話された。
.. 2009年02月14日 11:36   No.177004
++ タク (社長)…274回       
杉山元が陸軍大臣のときに盧溝橋事件が起きたのですが、省内をまったく統制できず、ついにあだ名が「グズ元」です。杉山元は敗戦後の9月12日に自決しますが、陸軍大臣の阿南などに比べると、ずいぶん遅い自決です。周囲の様子を伺いながら、ようやく決意しています。夫人も一緒に死んでいるのです。

少し杉山元を弁護しますと、兵の復員を全部済ませてから自決することを、杉山元は敗戦直後から決めていたと言います。兵をスムーズに武装解除、復員させなければ暴動が起きるかもしれない。それが終わるまでは死ねない、と考えていた。ところが夫人には説明していませんから、「早く死ね、早く死ね」と矢の催促をされたそうです。国防婦人会の会長などを務めていた杉山夫人は、夫と自分の戦争責任を強く感じていたのです。

後始末が終わり、「第一次軍司令官としての役割は終わったから、これで死ぬ」と言って、杉山元はピストルを手に自室に入りましたが、暫くするとドアを開けて顔を出して、「このピストルは弾が出ないぞ」といったそうです。副官が見て、「閣下、安全弁がかかっております。これを外さないと」と外して渡したところ、「今度は大丈夫か」と言って死んだのです。切腹したのではなかったのです。自決したあとに副官が夫人に電話で報告したら、「間違いないでしょうね」と、疑ったと言います。「間違いありません」と言ったら、夫人は安心して、夫人も直後に胸を突いて亡くなったそうです。

.. 2009年02月15日 07:22   No.177005


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