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■--8/20安和・塩川レポート
++ 千葉和夫 (大学生)…94回          

辺野古新基地建設につながるすべてに反対をしていきたい
 |  
 └──── (たんぽぽ舎ボランティア、在沖縄)

 8月20日(火) 天候:晴れ、風強く(海上で8から10m/秒)

<安和>
朝、安和に到着した8時40分 、海は荒れて波も高く(1.5から2m)
カヌーは断念した。
琉球セメント桟橋にはガット台船が接岸していたが、赤土搬送システ
ムの故障と思われる理由か2時間ほど途中ストップし、午前中には出港
しなかった。

<塩川>
カヌー&船(ゴムボート)のメンバー13名は塩川港に向かった。
9時5分、ガット台船が港に接岸してダンプカーが直接乗り込み赤土
を降ろしている。
ダンプカーが港に入るのに対して阻止行動を行なった。
私たちはカヌーに乗らなくとも、いろんなことに参加して辺野古に
赤土が運ばれるのを阻止する。
私は辺野古新基地建設につながるすべてのことに反対をしていきたい
と思っている。
結局、午前11時まで2時間ダンプカーを完全阻止し、機動隊が来て
排除されるまで頑張った。その後も排除されながらもダンプカーを遅ら
せるべく抗議行動を行った。
12時近くになりダンプカーが途絶え、本日の塩川港の積み出しは終了
したとの情報を得て私たちは撤退した。(午後の積み出しはなかった
模様)
現地の情報などによりランプウェイ台船もう1隻、計2隻に満積する
のを半分に抑えたと考えられる。
.. 2019年08月23日 13:16   No.1729001

++ 島村英紀 (社長)…483回       
事前に察知できなかった小惑星の接近−
 |  直径130メートル、時速9万キロの猛スピード
 |  警戒せよ!生死を分ける地震の基礎知識 その309
 └──── (地球物理学者)

 暑い夏なので怪談をひとつ。小惑星「2019 OK」が地球をかすめた。
地球に落ちたら大惨事になったはずだ。7月25日に月までの距離の5分
の1以下という近距離を通ったのだ。
 小さいとはいえ、小惑星の衝突の威力は大量の核兵器にも匹敵し、
大きな都市でも破壊する。

 今回、地球をかすめた小惑星の直径は130メートルだった。1908年には
この小惑星よりも小さな直径約60メートルの小惑星がシベリアのツン
グースカに落ち、人類史上最大の事故になった。大地震の比ではない。
ニューヨーク市の2倍近い広さの地域で木々が倒れ、東京23区と同じ
くらいの広さで被害が出た。

 じつは、6月30日は「小惑星の日」だった。ロシアのニュース局「ロ
シア・トゥデイ」が発表したリストには、地球にとって潜在的な危険性
をもつ全863の宇宙物体が記載されている。
 だが、「2019 OK」はこのリストにはなかった。問題はこの小惑星が
事前には分からなかったことだ。

 ブラジルと米国の研究チームが接近に気付いたのは、ほんの数日前の
ことだった。「2019 OK」は地球に向かって、時速約9万キロという
途方もないスピードで迫っていた。
 米国では2005年、連邦議会が米国航空宇宙局(NASA)に対し、20
20年までに直径140メートル以上の地球に接近する小惑星の90%を追跡す
るよう指示した。だが、直径数十メートル以上の天体は、地球に接近す
る可能性があるものだけで100万個もある。そのうち発見されているのは
1万個ほどにしかすぎない。

 欧州宇宙機関や国際小惑星警報ネットワークなどの国際組織も協力
しているが、能力には限界がある。
 小さな小惑星に目を光らせておくのは難しい。どちらから飛んでくる
か分からないのに、正しい時間に正しい方向へ望遠鏡を向けるしかない
からだ。小惑星は自分では光らないので、反射する太陽光を検出するこ
とによって初めて見える。だが、小惑星が小さければ小さいほど、その
反射はかすかで見つけにくい。

.. 2019年08月23日 13:30   No.1729002
++ 島村英紀 (社長)…484回       
 科学者にも言い分がある。「2019 OK」は比較的大きさが小さく、
軌道も通常と異なり、速度が非常に速かったので発見が難しかった
という。
 いままでは、地上に設置された望遠鏡で小惑星の監視が行われて
きている。
 しかしNASAによると、2021年に人工衛星に搭載する「地球近傍
天体カメラ」の打ち上げを計画している。これは小惑星を発見するため
に特別に設計された赤外線宇宙望遠鏡だ。より早期に小惑星を発見でき
るという。

 分かっているものでは直径900メートルの小惑星「1979XB」は、毎秒
30キロで近づいていて、最接近するのは2024年。またサッカー場4つ分
の大きさの巨大な小惑星「アポフィス」は、2029年に近づく。
 さて、NASAの「地球近傍天体カメラ」が今度の衝突までに間に
合えばいいのだが。

.. 2019年08月23日 13:36   No.1729003
++ 仲條拓躬 (社長)…376回       
東亜連盟誌の復刻2

現代歴史学、或いは一般通念においては、石原先生は満州事変、満州建国の首謀者の一人、昭和における大陸侵略の先駆者とされています。しかし石原先生に対する現代歴史学ないし一般通念の評価は、先生の生涯に対する或る時期の、しかも外面だけをとらえた認識にもとづくものです。

石原先生の真実は、先生の全生涯にわたる内的生活と公的な行動を、歴史的現実の展開に関連させて考察するとき、始めて我々の眼前に浮上することでしょう。武田邦太郎先生は石原先生の生涯を、次のような五期に分けて考えることが適当ではないかと言います。

第一期、青年士官のころです。その中心的時期は歩兵第六十五連隊(会津)期からドイツ留学、陸軍大学校教官を経て、関東軍参謀として赴任するまでの、すなわち明治42年(1909)頃から昭和3年(1928)10月まで、およそ20年間です。先生の生誕は明治22年(1889)であるから、20歳頃から39歳までです。

この間に、石原先生は戦争史の法則的研究を通じ、戦争の絶滅、永久平和近しとする総合史観を確立し、一方、先生が神に最も近い存在と確信した兵に、いかにして安心の境地における戦死を可能にさせ得るかという煩悶から、永い思想・信仰の遍歴の末、日蓮教の信仰に到達しています。

先生の戦争史研究は、日蓮教の信仰によって不動の目標を与えられた(『戦争史大観の由来記』および『戦争史大観の説明』参照)。また、日蓮聖人の予言により、永久平和の関門として日本を中心に起こるべき最終戦争です。

最終戦争への準備として不可避の戦争以外では、兵は感激をもって死地につかせることはできないとの信境に達します。後年、先生は主としてこの見地から日中戦争や大東亜戦争の回避に全力を傾注されるのです。第一期は、思想・信仰の基礎が形成された時期です。

第二期、関東軍参謀になってから、歩兵第四連隊長(仙台)、参謀本部作戦課長、同戦争指導課長、同作戦部長を経て、昭和12年(1937)9月、関東軍参謀副長としてふたたび満州へ赴任するまでの約9年間、軍人として全力をあげて活動した時期です。39歳から48歳まで。

.. 2019年08月23日 14:05   No.1729004
++ 仲條拓躬 (社長)…377回       
満州建国以後、国防に関する先生の努力は、ソ連の南下に対して東亜を防衛し、日本、朝鮮、満州国、中国等を主体として、米欧に対する最終戦争に必勝を期する東亜連盟の結成に注がれました。しかるに現実の日本はソ連に対する防衛を忘れ、石原先生を参謀本部から去らせて、中国侵略にひた走りました。軍人としての先生の活動盛期は、事実上、この時期に始まり、そして終わります。

第三期、関東軍参謀副長に転出してから、舞鶴要塞司令官を経、昭和16年(1941)3月、第十六師団長(京都)を最後に現役を去るまでの約3年半。石原先生の生涯では、おもに東亜連盟運動ないし日蓮教運動に入るための準備期ということができます。48歳から52歳まで。

関東軍参謀副長期には関東軍司令官の満州国内面指導の撤回、満州国の完全独立に力をつくし、京都師団長期には極東ソ連軍に対処するいわゆる「浸透戦法」を開発し、また師団の北満移駐について軍の物心両面にわたる準備に肝胆を砕いた。しかし、このような先生の努力はすべて実を結ばなかったのです。

この時期、現実に意義をもち得たのは、第四期以後に対する準備です。それだけに、精神的活動は白熱的に高揚し、仏教史上に一時期を画する「五五百才二重の信仰」は、多くの評伝に「石原は配所の月を眺める身となった」と記される舞鶴要塞司令官期に啓示されています。東亜連盟運動の最高指導書となった『昭和維新論』『東亜連盟建設要綱』『最終戦争論』『戦争史大観の由来期』『戦争史大観の説明』等もこの時期に出来ました。

第四期、京都師団長を退いて以後、昭和21年(1946)1月、東亜連盟運動が占領軍司令部から解散を命じられるまでの約5年間、52歳から57歳まで。信仰者、平和者、組織運動の指導者としての石原先生の実践的活動が最高潮に達し、かつみごとに結実した時期です。運動の目標は『最終戦争論』にもとづく東亜連盟の結成にありました。

当面は日中戦争、大東亜戦争の早期和平と農村の再建を目指しました。太平洋戦争末期、全国の地方組織は74を数え、約20万人の同志は政権獲得の近いことを確信しえたのであり、先生の生涯における最も重要な一時期をなしています。

.. 2019年08月23日 14:19   No.1729005
++ 仲條拓躬 (社長)…378回       
昭和20年(1945)9月12日、山形県新庄市に開催された東亜連盟同志会の集会は、同志約1万人を中心に参加者3万人余の大集会となり、永久平和実現に先駆する新日本建設を説かれる石原先生の所説に傾聴し、来年は富士の裾野に同志100万人が集まろうといわれる先生の呼びかけに熱狂呼応しました。

第五期、昭和21年10月、石原先生は山形県遊佐町(当時は高瀬村)西山開拓地に入ります。以後24年(1949)8月の死にいたる、57歳から60歳までの約3年。日蓮教信仰に集う青年男女の団体、精華会(大正9年以後、先生が所属していた国柱会の青年部)を指導し、死後のための著述を残し、後進の教育に精魂を傾けました。

敗戦後からこの時期にかけ、石原先生は『最終戦争論』に重大な修正を加え、最終戦争を回避しつつ永久平和を実現すべき世界の立正安国に向かい、日蓮教の旗じるしを高々とかかげられました。死の前年、昭和23年11月24日、門下有志の求めに応じて撮影された16ミリ『立正安国』は、先生の最後の姿を如実に今日まで伝えています。

石原先生が東亜連盟運動に挺身されたのは、先生の生涯の第四期、現実的活動の最も充実した時期でありました。先生は『東亜連盟入門』に「大陸の同志数百万」と述べておられます。『東亜連盟』誌を読まれる方がたは、このような歴史理解においてこれを繙かれるよう希望します。

.. 2019年08月23日 14:31   No.1729006
++ 仲條拓躬 (社長)…379回       
東亜連盟誌の復刻3

石原先生は昭和21年1月4日、東亜連盟同志会が占領軍司令部によって解散を命令されたのに抗議する文章「東亜連盟」を草しておられます。それが期せずして先生の「東亜連盟運動総括」になっているので、とくにその全文を紹介して、読者、研究者の参考にして頂ければと思います。権威を恐れぬ先生の公明正大な心事が明らかです。

東亜連盟(昭和21年)東亜連盟は満州建国に端を発し、若し建国前後に於ける我等が心境の開陳を許されるならば、満洲事変前、満洲に於ける紛争は日に切迫して、日本が政治的軍事的に全面的退却をなす以外解決の道なしと判断しました。日本の退却後、ソ連の南下に対し支那が独力防衛出来ないのは明白にて、日本の退却は東亜の不安を招来します。

石原先生の生涯につき、一般史家ないし世人の最大の誤解は、先生が満州事変において独断的軍事行動を起こし、いわゆる「陸軍における下剋上」の種子を播いたという問題です。これは東亜連盟運動における国策決定の基本に関係する問題であったから、一言しておかなければならないでしょう。

石原先生は極東軍事裁判の酒田臨時特別法廷における「宣誓口述書」に次のように述べられました。同「宣誓口述書」の記録には、その部分にとくに「中央総帥にそむかず」という小ミダシがつけられています。

「関東軍司令官本庄将軍は、温厚な人格にかかわらず、つねに大局を判断されて、少壮幕僚の積極的意見についても十分これを傾聴するとともに、閫外の重責を一身に担い、みずから確固たる決意をもって命令を発し、大綱に関し指示を与えられました。

関東軍は軍の意見としてしばしば積極的に具申し、中央部と激しい論争をすることもしばしばあったのでありますが、究極において軍の統帥作戦に関し、奉勅命令にそむき、もしくは奉勅指示に違反したことは一回もなかったことを断言致します。

当時、閫外の重任を有する関東軍司令官の行動で、中央統帥部と軍との間に、なんらの連絡がなくして行なわれたことを挙げれば、次の2つのみであります。その1つは、奉天事件突発にともなう関東軍主力の出動であります。

.. 2019年08月23日 14:40   No.1729007
++ 仲條拓躬 (社長)…380回       
しかしこれは前に申した通り、当時の軍事的形勢からみて、本庄将軍が関東軍司令部条令第3条ならびに平時の作戦準備に基づいてその有する任務権限を発動されたものであります。もう1つは、10月8日の錦州方面の爆撃であります。

これは当時錦州方面を占拠していた東北軍の状況を偵察するために、八八式偵察機6機、押収ボテーキ5機をもって該地域を偵察させましたところ、応射を受けたので、自衛上その軍政権庁舎である交通大学および二八師の兵営ならびに張作相の私邸等に約75発の爆弾を投下したに過ぎません。

ところがこの爆弾は7センチ級山砲くらいの大きさでありましたが、完全な投弾装置がなく、手で投げたようなあんばいで、多少弾丸が他に散ったかもしれません。しかしこれを前欧州大戦において独空軍が行なったロンドン爆撃、あるいは今次戦争における米軍『B29』等の日本都市爆撃とか、広島、長崎における原子爆弾投下の惨害に比べたら、ほとんど問題にならないほどであったと確信いたします」

上の文中、「前に申した通り云々」とあるのに幾らか注釈を加えます。満州事変の発端となった柳條湖の鉄道爆破は、関東軍作戦主任参謀であった石原先生の謀略ということがほとんど定説となっていますが、石原先生は強く謀略に反対しておられました。

当時の先生の日記を見ると、この謀略について関東軍の関係者の間でたびたび論議されたことが窺われますが、石原先生の見解では、軍の人員において装備において圧倒的優位に立つ張学良軍が、劣勢の関東軍に対し、近く大規模な攻撃を仕掛けて来ることは目に見えていました。
 

.. 2019年08月23日 14:49   No.1729008
++ 仲條拓躬 (社長)…381回       
そこで先生の作戦計画では、張学良軍の攻撃がいつどこで始まっても関東軍は直ちに全軍を瀋陽(当時の奉天)に集中し、敵軍の心臓部を一挙に撃砕すべき計画を立て、あらゆる訓練と準備を完了していました。

上文中にも明らかなように、関東軍指令部条令第3条により、日本居留民の生命財産が敵軍の攻撃によって危険にさらされたならば、関東軍司令官は中央統帥部の命令を待つまでもなく、独自に作戦行動を起こすことを許されていたのです。後日になって国の内外から問題にされるような「謀略」など、石原先生としては何ら必要としていなかったのです。
 
それでも先生は「自分は反対であったが、板垣(征四郎)や今田(新太郎)がやってしまった」などと決して口にせぬ人です。なお、上記「宣誓口述書」は、満州事変当時、石原先生と同じく関東軍参謀部に勤務した片倉衷氏(当時大尉、のち中将)が起草し、石原先生が修正されたものでありますが、注意して読めば、片倉氏の案文と石原先生の修正個所とは、文体、文調によって確実に区別されています。上記の引用文は、明らかに石原先生の文章なのです。

.. 2019年08月23日 15:00   No.1729009
++ 仲條拓躬 (社長)…382回       
東亜連盟誌の復刻4

最後に、石原先生が人類に贈られた最大の贈りものとして、人類史が近く世界の一体化、永久平和時代を迎えようとしているとする歴史観を指摘しておきます。世界はいま各国の核兵器開発競争、地球環境の悪化、食糧・エネルギー問題の急迫等により、人類の運命がいかなる帰着を迎えようとしているかという歴史的課題に直面しているからです。

石原先生は『戦争史大観』の初めに、その歴史観の核心、或いは結論を次のように明示されました。「戦争の進化は人類一般文化の発達と歩調を一にす。即ち一般文化の進歩を研究して戦争発達の状態を推断し得べきと共に、戦争進化の大勢を知る時は、人類文化発達の方向を判定するため有力なる根拠を得べし」

「戦争の絶滅は人類共通の理想なり。然れども道義的立場のみよりこれを実現するの至難なることは数千年歴史の証明するところなり。戦争術の徹底せる進歩は絶対平和を余儀なからしむるに最も有力なる原因となるべく、その時期はすでに切迫しつつあるを思わしむ」また、『戦争史大観の説明』には、同じ歴史法則が次のように語られています。

「戦争は人類文明の総合的運用である。戦争の進歩が人類文明の進歩と歩調を一にしているのは余りに自然である。武力の発達、すなわち戦争術の進歩が人類政治の統一を逐拡大してきた。世界の完全なる統一、すなわち戦争の絶滅は戦争術がその窮極的発達に達した時に実現せらるるものと考えねばならぬ」

「人類歴史は政治的統一範囲を逐次拡大して来たのであるが、それは文明の進歩により、主権の所有する武力が完全にその偉力を発揮し得る範囲をもって政治的統一の限度とする。すなわち将来主権者の所有する武力が必要に際し、全世界到るところにある反抗を迅速に潰滅し得るに到ったとき、世界は始めて政治的に統一するものと信ぜられる」

このような歴史観によって「最終戦争論」が生れ、最終戦争に必勝を期す東亜連盟運動が展開し、「生涯の五期」の第五期に述べてある通り、最終戦争を回避しつつ世界の政治的統一、永久平和を実現すべきことを熱願されるに至っています。『最終戦争論』の本質は戦争絶滅論、永久平和論であったのです。

.. 2019年08月23日 15:07   No.1729010
++ 仲條拓躬 (社長)…383回       
このような戦争の進歩と併行して、政治史の大勢が明らかにされました。『最終戦争論』に載せられた「戦争進化景況一覧表」は、戦争の進化と政治史の大勢との関連を簡明に浮き彫りしています。

ルネッサンスの火器使用以後、近代国家の発展が始まり、フランス革命以後、第一次欧州大戦までが国家主義全盛時代、第一次大戦から現代に到るまでが国家連合時代とされています。当時は核兵器が現れていなかったから、最終戦争によって世界の政治的統一、永久平和の扉が開かれることになっています。

現代は疑いもなく国家連合時代であり、一国家が単独で存立することはできません。ほとんど唯一の超大国家ともいえる米国でさえ、北米自由貿易協定(NAFTA)を形成し、アジア太平洋経済協力会議(APEC)に参加せずしては存立し得ないでしょう。

欧州連合(EU)がいまのところ国家連合形態の先頭に立っている形であり、中東を除けば、世界のほとんどすべての地域が国家連合形態に前進しつつあると言えます。東亜連盟運動は日本(朝鮮は高度の自治を獲得して民族軍隊をもつ)、満洲国、中国を主体とし、(1)政治の独立、(2)経済の一体化、(3)国防の共同の三原則による国家連合をめざしました。

第4に、汪兆銘氏が東亜連盟中国総会を開いたころ「思想の一元」、或いは「文化の溝通」が加えられたこともあります。現在の国家連合では欧州連合を除き、ほとんど「経済の一体化」が圧倒的ウェイトをもっていますが、「国防の共同」が武器によらず「戦争放棄」によって厳守され、完成されることを熱願せざるを得ないのです。

なぜなら、人類が核兵器をもって以後、武力による各国の安全、世界の平和は期待できないからです。それでは永久平和の実現する時期はいつか。『最終戦争論』では、第一次欧州大戦から50年内外で最終戦争の起こり得る時代に入り、以後約20年で「世界統一」とされていました。

第一次欧州大戦(1914〜1918年)から50年内外といえば、ケネディの米国とフルシチョフのソ連がキューバ問題で核兵器を持って睨みあったのが、1962年で、開戦になっていれば間違いなく最終戦争でした。第一次欧州大戦から約50年以後です。

.. 2019年08月23日 15:12   No.1729011
++ 仲條拓躬 (社長)…384回       
ただし『最終戦争論』の年代計算は文明の進歩の加速とその重大関節を示すものであったから、精確な年数を問うことは適当でないでしょう。石原先生は永久平和の扉の開く年代を測るのに、戦争学による科学的推算とともに、仏教の予言を信解され、両者はほぼ一致するとされました。

戦争学による科学的推算では、永久平和の到来が余りに早いことになるため、その年代計算までは発表を躊躇しておられましたが、仏教の予言に対する信解を得られて始めて、『最終戦争論』における永久平和実現の年代計算を発表されました。昭和14年3月のことです(『戦争史大観の由来記』参照)。

ともかく現代は永久平和の実現を眼前にした国家連合時代です。世界の現実をみる限り、永久平和の実現など夢のまた夢のように思われるのですが、もし各国の歩調が「戦争放棄」において一致すれば、戦争に使われている各国の国家予算、科学・技術、或いは各国国民の能力が経済成長、生活環境の改善、食糧・エネルギー問題の解決等に集中されます。

戦争も貧困もなく、病気や自然災害からさえ解放された地球世界が人類の眼前に姿を現すのではないでしょうか。仏教の予言によれば、この歴史的趨勢が決定的になる時期は今後約20年、2015〜2020年ころとされていたのです。

.. 2019年08月23日 15:17   No.1729012


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