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■--ホントの話
++ 伝六 (大学生)…88回          

石原莞爾は思想家としてもよいが、思想について職業にしている人の一般的傾向である、いささか神経過敏なところはない。その例を最終戦争論からあげると、
「今の世の中でも、もしもピストル以上の飛び道具を全部なくしたならば、選挙のときには恐らく政党は演壇に立って言論戦なんかやりません。言論では勝負が遅い。必ず腕力を用いることになります。しかし警官はピストルを持っている。兵隊さんは機関銃を持っている。いかに剣道、柔道の大家でも、これではダメだ。だから甚だ迂遠な方法であるが、言論戦で選挙を争っているのです。兵器の発達が世の中を泰平にしているのです。この次の、すごい決戦戦争で、人類はもうとても戦争をやることはできないということになる。そこで初めて世界の人類が長くあこがれていた本当の平和に到着するのであります。」
争いのあるところ、結局は腕力になるという文明の程度から、我々はまだ脱却していない。選挙どころか、国会討論でも、どうも討論にはなっていないようだ。言葉の暴力?の応酬に近いのでは。
.. 2009年01月12日 16:26   No.172001

++ タク (社長)…263回       
ヒトラーに関しては、革命とか暴力とかいう言葉は、注意して使わないと間違います。バリケードを築いて行うような革命は、ヒトラーが一番嫌っていたものです。革命の真意は、非合法を一挙に合法と成すにある。それなら、革命などは、国家権力を合法的に掌握してから行えば沢山だ、これが、早くから、一環として揺るがなかったヒトラーの政治闘争の綱領です。ヒトラーは、暴力の価値をはっきりと認めていました。平和愛好や暴力否定の思想ほど、ヒトラーが信用しなかったものはありません。ナチスの運動は、突撃隊という暴力団に援護されて成功したのです。

.. 2009年01月14日 18:49   No.172002
++ 伝六 (大学生)…89回       
「永久平和への道」でソウ寧柱が、王精衛脱出の章で、「石原は王の重慶脱出の時点で、すでに彼の前途を見通していた。「男に惚れて家出した娘が、つれなく男にふられて、里に帰れず身寄りの所もなし、途方に暮れる様が王精衛によくみられる」結局王精衛は東条軍事政権に利用されっぱなしで、所期の目的は果たし得ず、石原のいう通りに客死同然の生涯をとじた」と書いている。石原莞爾の言ったとおりではないだろうが、石原莞爾の洞察力を示している。若干汪に冷たい観察なのは、ソウ先生のうけとめがまじっているのかどうかはさだかではない。汪政権樹立にかかわった影佐中将は、ある人に次のように語ったという。「汪兆銘が日本との和平を志して、その同志とともに名誉と命をかけて、蒋政権の首都重慶を脱出してきたのだから、むろん新政権樹立の交渉にも骨は折れたが、難関はむしろ東京であった。やっと両者合意の成案を東京におくると、夜郎自大の軍中央幕僚は、相手側が立ち場上どうしても呑み込み得ないような過酷な条件を、後から後から上積みしてきた。それでは汪兆銘の和平政権は成り立たない。中国民衆の支持を失ってしまう。交渉にはすべて目的がある。目的を越える要求はすでに交渉ではない。軍の中央幕僚がそれほど馬鹿ばかりとは思っていなかったが、残念ながら、未熟の人間がたまたま権勢の座につくと、いたずらに自らの力を試みたり、功を焦ったりする。中国側の交渉担当者・周仏海は、なかなかできた幅の広い人物だったが、「影佐先生。これはちょっとひどいなあ、汪先生に何と話をしたものか・・・」と嘆息した。彼にも汪兆銘にも、まともに顔が合わせられないほど、恥ずかしい思いをしたものだ。こんなことでは・・・」
(松浦義教著「真相を訴える」より)

.. 2009年01月17日 11:38   No.172003
++ タク (社長)…267回       
武田邦太郎先生が語る

そう寧柱先輩の助言

復刻の議が起こるや、東亜連盟運動の後を継ぐ、石原莞爾平和思想研究会(渡辺正会長)の運営委員会におはかりしたところ、1人の反対もなく賛成されたが、石原門下の先輩、そう寧柱氏はとくに私を招いて次のような助言を寄せられた。

「『東亜連盟』誌に寄稿された人々は、石原先生はもちろん、多くの人々があの苛烈な軍閥政府の弾圧下に、筆を曲げることなく所信を吐露された。それだけに論者1人1人、それぞれの段階で非妥協的論説を展開された結果、石原先生の経綸に必ずしも完全には一致しない主張も絶無ではない。しかしそのような主張を表明された方がたも、時たつにつれ、究極において石原先生の説かれるところに推服されている。『東亜連盟』誌の復刻は、東亜連盟運動における同志間、指導者間の思想的統一と高まりが運動の進展とともに前進していることを証明するであろう。復刻に当たりそのことを一言しておいてはどうか」

そう先輩自身、あの東亜連盟運動の受難期に、寸毫も節を曲げることなく、二年余の投獄、拷問を経験されたのであった。いま先輩の右の助言に接し、心からな敬意と感謝をささげずにはいられない。そう先輩は石原莞爾平和思想研究会の顧問であり、私もそうである。

大正元年(1912)12月、広島県福山市に生まれる。昭和10年、東京大学文学部西洋史学科卒業。同11年、鐘紡農林部に入社。中国にて大農牧場の建設・経営に参加。同21年、山形市遊佐町西山開拓地に入植、開拓農業協同組合長。同36年、池田勇人総理の私的諮問機関、新農政研究所に入所、農政部長。同40年、(財)新農政研究所発足、副所長。同52年、所長。同58年、武田平和研究所設立、代表(現職)。同61年、武田新農政研究所設立、所長(現職)。この間、赤木宗徳農林大臣顧問。田中角栄内閣日本列島改造問題懇談会委員。三木武夫内閣国民食糧会議委員等を委嘱される。平成4年、参議院議員。現在外務委員会委員、沖縄及び北方領土に関する特別委員会委員。著書に『食糧危機と日本農業の展望』『日本農業前途洋々論――農業イノベーションのすすめ』(共編)『コメは安くできる!農家は豊かになれる――農業イノベーションの提唱』など。

.. 2009年01月20日 08:21   No.172004


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