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満州国独立宣言
荒木陸相就任後の1月6日、陸軍中央で、満蒙(北満を含む)は、逐次日本の「保護的国家」に誘導するとの「時局処理要綱案」が決定されました。中国主権下での新政権樹立から独立国家建設へ、陸軍の満蒙政策の大きな変化でありました。
また、関東軍の全満州占領方針も陸軍中央によって承認され、チチハル、ハルビンの占領をはじめ関東軍による北満支配が実施されました。そして錦州攻略も実行された。この頃石原莞爾は、本庄に「錦州より先に東京が陥落しましたな」と笑いかけたとのことでした。
1月8日、天皇から関東軍に対し、「朕深く其忠烈を嘉す」との勅語が与えられました。そしてまもなく(3月12日)、犬養内閣は、満蒙は「逐次一国家たるの実質を具有する様これを誘導す」との、「満蒙問題処理方針要綱」を閣議決定しました。
独立国家建設方針が内閣の正式承認をえたのです。その直前の3月1日、すでに満州国建国宣言は、関東軍主導のもと前黒竜江省長張景恵を委員長とする東北行政委員会によってなされていました。満州国は共和国のかたちをとり、溥儀が執政となり、首都は新京(旧長春)とされました。
満州国建国に向けて、2月5日から25日まで10回にわたって新国家建設幕僚会議が開かれ、新国家の基本的骨格が決められていました。会議には、石原・板垣・片倉ら関東軍参謀と、松木国際法顧問(満鉄調査課員)、駒井徳三財政顧問(元満鉄社員)などが出席・協議しています。
こうして、石原莞爾ら関東軍が意図した全満州の占領と独立国家建設は、陸軍中央の、さらには政府の容認するところとなったのです。またこれ以後, 一夕会系幕僚が事実上陸軍中央を動かすことになっていくのです。
なお、1月18日、日本人僧侶が中国人に襲撃されて死傷するという上海事件が起こります。これは、田中隆吉上海公使館付陸軍武官補佐官の謀略によるものでした。田中は、板垣から満州に注がれている列強の関心をそらしてほしいとの依頼を受けていました。
この事件を機に、日本人居留民が政府に派兵を要請し、第一次上海事変となった(停戦は3月3日)。第一次上海事変の間に、満州では、関東軍によるハルビン攻略、錦州攻略が実行され、また満州国独立宣言が発せられたのです。
.. 2019年02月27日 11:09 No.1600002
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