|
1279(弘安2)年に南栄を滅ぼして中国を統一した皇帝フビライは、1281(弘安4)年に2度目の日本遠征軍を送りました。弘安の役です。蒙古側は、高麗から出発した東路軍4万人と、寧波から出発した江南軍10万人に分かれていました。文永の役に比べて4倍以上の兵力です。文永の役とは異なり、日本側の水際作戦は万全でした。
博多湾沿いに、遠浅の浜には石造りの防塁を築き、潟には乱杭を打ち込み、蒙古の襲来に備えていたのです。蒙古軍は博多湾から上陸できず、志賀島に上陸し、その後、撃退されています。結局、弘安の役で蒙古側は本格的な上陸を果すことができず、一か月近くを空費することになりました。
弘安四4年7月30日、風が吹き始め、夜には暴風雨となりました。太陽暦(グレゴリオ暦)の8月22日に当たり、まさに台風シーズンであって、もともと蒙古軍は危うい状況にありました。蒙古側の船は大半が沈み、兵たちは溺死しました。大型の台風が襲来したのは事実だとしても、一か月前の汚滞に問題があって、それを「神風」とは言えないでしょう。
蒙古襲来に関しては、川添昭二による学術史的な研究(『蒙古襲来研究史論』)が重要でありますが、その後、服部英雄氏の研究によって急展開を見せています。その成果は研究書『蒙古襲来』(2014年)などにまとめられています。
文永の役において、嵐とは関係なく蒙古軍は自発的に撤退した、弘安の役では確かに台風が襲来し、蒙古の艦隊は甚大な被害を受け、日本側の防備が固く、たとえ台風が吹かなかったとしても上陸は困難で、いずれ撤退を余儀なくされたと考えられます。二度も日本側は善戦したのであって、特に弘安の役に先立っては防御態勢が確立されていたのでした。
戦後の日本に歴史家の蒙古襲来に対する評価は、蒙古側の内部の問題を強調するところでは一致しているけれども、日本側の防備や善戦ぶりを概して低く見ています。だが、他のユーラシアの諸国(南米、ロシア、ペルシャなど)とは異なり、日本側は権力の中心が鎌倉と京都に分裂していた割によく結束して困難に当たっているのです。
.. 2018年12月21日 15:34 No.1557001
|