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◎和田 勁氏 満洲国軍の創設に関与し、人情深い豪傑だった ――和田 勁さんについては? 武田 立派な人だと思いますね。将軍に対して本当に礼儀正しい人でした。秋田の連隊を中尉で辞めたんですが、その理由が秋田で一番の芸者さんと仲良くなったからですよ。当時の軍隊では芸者との結婚は許されなかった。和田さんは「そんなら軍人など辞めてやる」と言って結婚した。それが獅郎さんのお母さんですよ。獅郎さんって知らない? ――ええ。 武田 獅郎さんは、ある時期ハーモニカを習っていた。新井克輔先生の弟子か兄弟弟子ですよ。将軍と一緒に旅行しますね。すると将軍は膀胱が悪いから、しょっちゅうオシッコに立つわけです。皆が熟睡していると、将軍は眠りを妨げぬように気付かれぬようにそっとオシッコに行く。すると和田さんはサッと立って便所に行って電燈を点けるんだそうですよ。 和田 勁さんは、「真剣を持たせたら陸軍では誰もかなう奴はいない」とまで称された。西郷四郎(会津藩家老の西郷頼母の養子)と従兄弟の関係かな。「剣の和田 勁、銃の西郷四郎」と称されたほどの、四郎さんは武張った会津の人らしいですね。 ――これは、後藤昌次郎さんという弁護士の方からお聞きしたのですが、後藤さんが東亜連盟の会合に出席された時、ご自身の足が不自由なので小さな椅子に腰掛けて将軍の前に席をとったのだそうです。そうしたら、後方から雷が落ちるかのようなとんでもない声で大喝されたと言うのです。振り返ってみたら、それが和田 勁さんだったと。和田さんは事情を知らずに「無礼者め!」と思い込んで大声を放ってしまったのですが、石原将軍はすぐに事情を説明して諌めたそうです。それにしても和田さんのような豪傑が当時、おられたのですね。 武田 人情深いというのか後輩を心配されるというのか、満州国の軍隊を作るのに非常に貢献した人でした。だから、異民族の兵隊が親のように慕ったらしいですね。将軍が亡くなられた後も西山によくお見えになったですよ。僕らの畑は地味が悪いから作物の出来は良くないのだが、それでもたまに出来が良い時がある。例えば、菜種がある程度できた年があったんです。和田さんは「武田さん、菜種良くできましたなあ。いやあ良かったですねえ」と言って、僕らよりも嬉しがるんですよ。純情ですよ。心から嬉しいんですね。
.. 2018年07月17日 12:08 No.1448001
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