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■--石原莞爾平和思想研究会を続ける訳
++ 仲條拓躬 (平社員)…132回          


私は人一倍癌について知っているつもりでした。だから父が国立癌センタ柏病棟へ入院していただき外科療法の判断をしたり最善の方法を考えたりした。そして最後は緩和病棟入れてもらい人生最後をここで送った。ここでの暮らしは安らかにゆっくりと痛みがなく亡くなってゆくのかと思っていた。

ところが電話があり、突然、私が仕事でどうしても外せない時に入院させてしまった。弟に頼んで病院へ行ってもらい後で聞いたことだが、ゆっくり抹茶を立てて甘いものを食べた後、先生から「この痛み止めを注射するとお話が出来なくなるかも知れません」といわれ、親父は兄貴に何か大切な事を言おうとして「拓躬は来ないのか」と何度も言っていたという。

結局、強いモルヒネを点滴したので死ぬまでまともに話をすることは出来なくなってしまった。悔やんでも悔やみきれない出来事です。父は私に何を告げようとしていたのか。最後の言葉は「石原莞爾を頼む、ありがとう」だった。

また、初代編集長である河野信先生が入院したので会の同志が集まってお見舞いに行った。広い個室で同志たちと語り合った。病気に障るので長居はいけないと帰ろうとしたところ、河野信先生が私以外の方は部屋を出るように言われたので個室には私と河野信先生だけとなった。「近くに来いと言われ」近づくと私の手を強く握り「石原莞爾平和思想研究会を頼むぞ」と言われ涙していた。その何日後に河野先生も亡くなられた。

2代目編集長は戸邊榮一先生でした。休みの日は青年部の同志を連れて戸邊榮一先生のお話を聞きにおじゃましておりました。「これからは若い世代で会を引き継いでもらいたい」と何度もおっしゃっていました。いつも座ってお話しされた椅子に座ったままお亡くなりになったと聞いた時は驚きました。

戸邊榮一先生に代わって3代目の編集長に選任され就任したのは、島田守康編集長だった。編集長に就任されてからは、石原莞爾が残した書物の研究や武田邦太郎先生を積極的にインタビューするなどして、「埋もれた」資料の発掘や証言の開拓に尽力されました。
.. 2018年07月06日 09:59   No.1442001

++ 仲條拓躬 (平社員)…133回       
また、フランスのテレビ局が、当会の渕上千津女史や故佐藤秀一郎副会長を取材し、当会会員もそのために真摯に尽力したにも関わらず、事前の約束の、放送されたDVDの郵送が当会にされないばかりか、EU全土に放映されたその内容が誤解される内容だったことを知り、義憤に駆られフランス大使館に問い合わせるなど、石原莞爾と当会の名誉のために最大限の努力と奮闘をいたしました。

闘病生活を送っていたにも関わらず、最後の力が尽きるまで編集長としての職務を全うされましたことは、会長として、感動と感謝の念に堪えません。そんな最後の日々が続く中、亡くなる5日前に、私のスマホに3回も「総会まで体が持ちそうにないので、後の事をお願いしたい」という電話がありました。

島田編集長の声や安藤徳次郎先生と手賀沼のボートの上へ石原莞爾将軍を語った想い出・武田邦太郎先生の自宅で「あんたがやりなさい」と叩きこまれた石原莞爾将軍への志などが大病した私の脳裏に今も蘇ります。その先生方の不屈の精神を引き継がなくてはならない思いはここにあるのです。

いつの時代にも、理不尽なことを言う人がいる。父への尊敬の念、同志たちとの友情。不合理への憤り、筋を曲げないことの難しさ。伝えられなかった思い。石原莞爾平和思想研究会は、これからも先人たちの屍を涙して乗り越えながら精進して行くことを誓い、長い間お世話になった先生方に心から哀悼と感謝の意を捧げます。

.. 2018年07月06日 11:42   No.1442002
++ 浅井基文 (幼稚園生)…1回       
朝米首脳会談の歴史的意義と今後の課題
 └────  (元外交官、政治学者)

《事故情報編集部》より
 浅井基文氏のこの文章は、今の時節にとても合った内容の深いものです。
 メールマガジン転載について快諾を得ましたので全文を紹介します。


<朝米首脳会談の歴史的意義>−画期的、歴史的な事件だ

 朝米首脳会談の結果について、アメリカ主流メディアをはじめとする既成エス
タブリッシュメントの評価はきわめて辛辣なものが多いようだ。
 それは、朝鮮民主主義人民共和国(以下「朝鮮」)に対する牢固とした不信・
敵意と、反エスタブリッシュメントを売り物にし、既成政治(特にオバマ)の成
果物を次々に破壊するズブの政治的素人・トランプに対する反感・軽蔑に基づく、
偏見に囚われたものだ。

 遺憾なのは、アメリカ主流メディアの圧倒的影響力のもとにある日本のマス・
メディアの評価もおしなべて批判的であり、そのことがまた、国内世論の受けと
め方をも支配していることだ。
 しかし、今回の朝米首脳会談は、第二次大戦終結後の現代史において、1972年
の米中首脳会談(ニクソン訪中)及び1986年の米ソ首脳会談(レイソキャビック)
を継ぐ画期的・歴史的な事件である。
 もちろん地政学的には、米中及び米ソ首脳会談のような世界規模のインパクト
は持ちえない。
 しかし、1945年以後の世界を支配してきた冷戦構造が地上において唯一残存し
てきた朝鮮半島が、今やその足かせを最終的に脱する第一歩を記した事実はやは
り特筆大書に値する。

 この歴史的ドラマの最大の立役者はもちろん金正恩である。アメリカと対等に
渡り合える唯一のカードとして核デタランス確立に邁進(その間は対中関係が谷
底まで落ち込むことも厭わなかった)し、カードを手にした年初以来は果敢な外
交を展開して、朝中、北南そして朝米の首脳会談を実現させた手腕は、これまた
世界の外交史に名を連ねるだろう。

 また、今回のドラマは歴史の妙味をも実感させる。勇猛果敢の金正恩、剛毅木
訥の文在寅、猪突猛進のトランプ、この絶妙な役者のまったく偶然の組み合わせ
によってのみ今回のドラマが成立した。
 しかし、その偶然を通じて歴史は自らを貫徹するということだ。

.. 2018年07月09日 08:15   No.1442003
++ 浅井基文 (幼稚園生)…2回       
 この歴史的ドラマを可能にした陰の主役は中国だ。中国は2003年以来のいわゆ
る6者協議(北南中露米日)を主導してきた。
 習近平は、トランプが敬意を素直に口にする数少ない人物であると同時に、金
正恩の3度にわたる訪中(しかもわずか3ヶ月の間に)が如実に示すように、金
正恩とは肝胆相照らす仲を構築した。習近平の介在なしに朝米首脳会談の実現は
なかっただろう(3度目の朝中首脳会談で、金正恩は「中国の党と政府が朝米首
脳の対面と会談の成功裏の開催のために積極的で真心こもった支持と立派な協力
を与えたことに謝意を表した」と朝鮮中央通信は報道した)。

 また、1.朝米首脳会談実現までの一連の経緯を経て朝米間の立場の隔たりが
重要な点で埋まる可能性が生まれたこと、
 また、2.トランプが朝鮮の体制交代(レジーム・チェンジ)を追求しない点
で歴代政権と異なることを(おそらく習近平の助言を得ることによって)納得し
た金正恩と、商売人として培った直感力に絶大な自信を持ち、金正恩と相まみえ
た瞬間に彼を交渉相手として認めたトランプとの間に一種の「信頼」が成立した
ことも重要である。
 前者に関しては、長期にわたる同歩的互動の積み重ねによる問題解決を目指し
てきた朝鮮は、トランプ政権の目指す短期決戦方式に「うまみ」を見いだした。
 なぜならば、トランプの後の大統領が朝鮮の「体制交代」を追求しない保証は
まったくないからだ。

 他方、朝鮮半島問題の複雑さ・解決の至難さに無知だったトランプは、ようや
くそれを認識し、「プロセス」を踏むことが必要であることを口にすることとな
った。ポンペイオが議会証言で表明した「CVIDとCVIGの取引」が朝米双
方において実現できる可能性として認識された意義はきわめて大きい。
 

.. 2018年07月09日 08:22   No.1442004
++ 浅井基文 (幼稚園生)…3回       
後者に関しては、70年以上にわたって不信と敵意が支配してきた朝米関係が首
脳間の信頼と善意によって置換される可能性が生まれるというにわかには信じが
たい状況が現出しつつある(朝鮮中央通信報道文は「(両指導者が)敵対と不信、
憎悪の中で生きてきた両国が不幸な過去を伏せて互いに利益になる立派で誇るに
足る未来に向かって力強く前進し、もう一つの新しい時代、朝米協力の時代が開
かれるようになるとの期待と確信を披れきした」と紹介)。韓国紙・ハンギョレ
は「性悪説から性善説へのパラダイム転換」と形容したほどである。

 今一つ、朝米首脳会談の歴史的意義として忘れてはならないことは、今回の首
脳会談を経た朝鮮半島情勢はもはや2017年以前の最悪の事態に逆戻りすることは
あり得ないということだ。
 仮に朝米関係が暗転しても、「悪者・朝鮮」という国際的イメージはもはや通
用しない。米日が国際的制裁を叫んでも説得力はない。朝鮮は中国という後ろ盾
を確保したし、極東開発に取り組むプーチン・ロシアも朝露関係改善に意欲的だ。
 国連のグテーレス事務総長も、対米追随だった前任者(潘基文)とは異なり、
対米自主独立の姿勢を貫く。
 さらに、韓国・文在寅政権は北南首脳会談の成果である板門店宣言に基づいて
北南関係を改善することに大きな使命感をもって取り組む決意である。
 要するに、朝鮮を取り巻く国際環境は大きく変わったということだ。

<今後の課題>−3つの点

 朝米関係は最初にして大きな第一歩を踏み出した。
 しかし、朝鮮半島の非核化とその平和と安定を実現するために解決するべき課
題は山積しており、前途は決して安易な楽観を許さない。

 第一、トランプ政権の国内基盤が脆弱であり、しかもトランプ自身が短気かつ
気まぐれであって先が読めないこと。
 反オバマにおいてのみ一貫性があるトランプの支離滅裂は、いわゆる「朝鮮核
問題」の解決には前向きであるのに、イランに関する核合意(JCPOA)につ
いては、オバマ政権が同意した「最悪の合意」として一方的に脱退するという行
動に端的に現れている。トランプがいつ「心変わり」するかという不確実性は常
につきまとう。

.. 2018年07月09日 08:33   No.1442005
++ 浅井基文 (幼稚園生)…4回       
 第二、2003年の6者協議以来一貫したテーマは「朝鮮半島の非核化」であって、
「朝鮮の非核化」ではないということ。
 つまり、朝鮮の非核化だけではなく、アメリカの対朝鮮半島核戦略・政策その
ものも対象であるということだ。
 具体的には、アメリカの韓国に対する拡大核デタランス(核の傘)及びアメリ
カが韓国に配備を進めつつあるTHAAD(注1)の問題だ。
 アメリカの拡大核デタランス戦略は世界規模のもの(欧州、日本にもかかわる)
であり、アメリカが簡単に交渉のまな板に載せることに応じるとは考えにくい。
仮に韓国について応じれば、欧州及び日本の反核世論を激発するだろう。

 韓国へのTHAAD配備に関して言えば、アメリカの真意はロシア及び中国の
核ミサイルに対する世界的監視網展開の一環という位置づけである。米韓はこれ
まで、朝鮮の核ミサイルに対するデタランスとして正当化してきたが、その理屈
からすれば、朝鮮の非核化に伴い不必要となるはずだ。中国とロシアが6者協議
という枠組みにこだわるのは当然だ。

 第三に、「CVID(注2)とCVIG(注3)の取引」そのものに内在する困難
を極める問題の存在。
 「できるだけ短い時間内に非核化プロセスを完了させる」点では合意したが、
C(完全)、V(検証可能)、I(不可逆)のいずれも簡単ではない。
 VとIは主として技術的範疇の問題だが、Cは優れて政治的だ。

 大きくいって二つの問題がある。
 一つは、完全な非核化というが、NPTで認められている平和利用の権利まで
朝鮮から取り上げることには、朝鮮は強く反発するだろう。
 今一つはミサイル開発を禁止するとしても、宇宙の平和利用の権利まで奪うこ
とには朝鮮はやはり抵抗するだろう。
 これらの問題を仮にクリアできるとした場合にも、「朝鮮半島非核化」と「朝
鮮の平和と安定」を同歩的に進めるロード・マップとタイム・テーブルに朝米及
び他の4ヵ国(韓中露日)が短時間で合意に達しうるかという問題が残る。ここ
でも、第一にあげたトランプの短気かつ気まぐれがいつ何時激発しても不思議は
ない。

.. 2018年07月09日 08:43   No.1442006
++ 浅井基文 (小学校低学年)…5回       
以上を要するに、朝米首脳会談の歴史的意義はきわめて大きい、しかし、朝鮮
半島非核化への道のりはそれにも増して険しいものがある、ということになるだ
ろう。 (ML[minayoko:2577]より、浅井基文氏の了承を得て転載)

 注1:THAAD−終末高高度防衛弾道弾迎撃ミサイル
 注2:CVID−[Complete,Verifiable,and Irreversible Dismantlement]
    「完全かつ検証可能で不可逆的な(核)解体」
注3:CVIG−「完全かつ検証可能で不可逆的な安全保証」

.. 2018年07月09日 08:59   No.1442007
++ 山田洋子 (小学校中学年)…12回       
7/14(土)右田隆の一人芝居「九条への生還」と
 |  「鈴木公子さん(辺野古カヌーチーム)の現状報告」
 └──── (たんぽぽ舎ボランティア)

 日 時:7月14日(土)14:00より16:00
 演技者:右田 隆(俳優)
 報告者:鈴木公子(辺野古カヌーチーム)
 会 場:「スペースたんぽぽ」
       千代田区神田三崎町2-6-2ダイナミックビル4F
 連絡先:たんぽぽ舎 TEL:03-3238-9035
      https://www.tanpoposya.com/
 参加費:800円 申し込み不要 どなたも参加自由

(1)右田 隆さん
  原爆ドーム、官邸前、国会前、NewYorkのグラウンド・ゼロで演技しました。
  ベトナム帰還兵、元海兵隊員の憲法9条に対する熱い思いを訴えます。
  ストリートをはじめ様々な場所で、No War、もりかけ・安倍NO!の右
田節。
(2)鈴木公子さん(カヌーチーム・メンバー)より
最新の辺野古報告があります。8月に辺野古の海に土砂が投入されようとし
ています。今、現地で何が起きているのでしょうか?何をすべきか?

 一人芝居実演、辺野古報告の終了後、お話会を開きます。
 戦争への道、基地建設をどうすれば阻めるのか。
 皆さんと思いを通わせましょう。

.. 2018年07月09日 10:23   No.1442008
++ 寺島栄宏 (幼稚園生)…3回       
修学旅行おみやげ取り上げ事件
 | 「朝鮮人としての尊厳」に傷をつけた
 | 担当官、当局への朝鮮高校生の怒りと涙
 └──── (ジャーナリスト、メールマガジン読者)

 6.14〜28にかけ朝鮮高校生の修学旅行に引率として朝鮮に行ってきました。米
朝共同宣言の平和と繁栄の流れの中で行く修学旅行は、また格別な思いがありま
した。
 なによりも楽しく、なによりも感動的な15日間が…、最後は最悪な修学旅行に。

 お土産、没収の嵐。泣きわめく女子生徒、悔しくて悔しくて怒りの抗議をする
男子生徒。地獄絵図でした。関西空港税関の対応は「上の指示で輸入が禁止され
ているから」のみ。
 若干18歳の高校生に「任意放棄書」なるものを「強制的に」書かせる当局の方々
には人の心がないのでしょうか。
 あまりの悔しさに、せめてクッションなどのお土産の紙だけでもと、一枚一枚
回収する男子生徒。ゲートを出た瞬間に泣き崩れていました。
 しかも飛行機の遅れもありゲートを出たのは0:00過ぎていました。悔しさに今
も眠れません。

××す。
 もちろん、お土産を奪われたショックも大きいです。これからはそんな事が無
いように、どうにか無事に持ってくる手段も考えないといけないとは思います。
 でも生徒たちが何に泣き、何に怒ったか。
 自分たちの「朝鮮人としての尊厳」に傷をつけた担当官、当局への涙、怒りで
あり、「モノ」への執着ではなかったのでしょう。
 結果はわかっていても、怒りに震え、私の手を何度も振り払いながら抗議する
生徒たちを見ながら、心の底からそう思いました。

.. 2018年07月09日 11:22   No.1442009
++ 仲條拓躬 (平社員)…134回       
石原莞爾将軍との出会いと忘れ得ぬ人々(中)
◎伊東六十次郎氏
 満州国協和会の創立者兼最高幹部、シベリア抑留11年
――次に、伊東六十次郎さんについて……。
武田 この方は立派な人ですよ。青森県の津軽支部は、伊東先生が中心となってやられた。津軽藩には藩校があるのですが、その担い手の家柄出身です。伊東先生は物凄いズーズー弁でしたよ。
僕が初めて伊東さんにお会いしたのは、石原将軍が昭和16年(1941年)に京都の十六師団長を辞められて、立命館大学の中川小十郎総長の別邸におられた時です。将軍が伊東先生のズーズー弁を僕がちょっと変に感じるかと思われたのでしょうね。「なあ、お互いがズーズーでねえか」とか言ってね、将軍はズーズーじゃないけれども、まあ自分もそうだということにしてね(笑)。ああ、将軍は伊東先生をいたわっておられるんだなあ、と感激しました。これが伊東先生との初対面でしたから、よく覚えています。
――伊東さんは、長年にわたってシベリアに抑留された方ですよね。
武田 そうそう。ラーゲル(強制収容所)の中で日本人が意気消沈しているでしょ。ところが、伊東先生はそういう日本人に向かって、「日本は絶対に大丈夫だ。天皇中心に復興するから」と励ますわけだ。ゲーペーウー(ソ連秘密警察)でも、ちゃんと人を見るんですね。「伊東は人柄の立派な男で早く帰還させてもいいんだが、天皇のことを言い過ぎる。日本に帰還してもそれを言わんようにすればすぐ帰してやる」とまで言われたそうですよ。
ところが伊東先生は、「いや、私はイヤだ」と拒絶した。ナホトカまで送ってこられておるのに、ソ連は最後のダメ押しをやられたら困るので、やはり及第しなくて一番最後の帰還となったらしいです。
――ソ連に連行された約60万人の日本軍人は平均2〜3年で帰されたのに、伊東先生は11年と4ヵ月間も抑留されたらしいですね。恐らく、最長不倒ではないかと思います。
武田 伊東先生は、自分より早く帰還する同志に、粗末な紙に鉛筆か何かで「日本復興の道」という所信を細かい字で書いて、「石原将軍に届けてくれ」と託したそうです。託されたその人は、靴のかかとに細工してそれを詰めて持って帰ったらしい。

.. 2018年07月09日 11:35   No.1442010
++ 仲條拓躬 (平社員)…135回       
そして、将軍の下へ行ってお渡しした。「伊東はかくかくして、なかなか帰れません。ナホトカまで来ておるのに、また送り返された」とあったらしい。すると将軍は涙を催されて、「いやあ、伊東さんはそういう人なんだよ」としみじみ言われたそうです。
――伊東さんが昭和13年(1938年)に書かれた『東亜連盟結成論』とか翌年の『極秘 対蘇思想戦論』(ともに東亜思想戦研究会刊)、それに『協和会戦争学』(満洲帝国協和会哈爾濱支部、著者名、刊行年の記載なし)の著作を拝見すると、ソ連の共産主義に対抗する東亜連盟への熱い思いが伝わってきますね。
武田 伊東先生は満州国協和会の創立者兼最高幹部の一人ですよ。だから敗戦と同時にすぐ捕まってしまった。
 石原将軍と歴史観が近似、ゆえに『戦争史大観』の原本を託す
――これは人伝えですが、近寄りがたいお人柄という印象もあったようですね。
武田 そうですねえ、津軽藩の家学というものが影響していたかも知れません。それに歴史観が伴っておって、その殻が抜けないというので六郎さんもあまり伊東先生とは親しくしなかったですね。ただ、非常に人柄はいいわけですよ。
だから、石原将軍が『戦争史大観』の原稿だったかな、将軍が自分の原稿をどういうふうに始末するかということを色々と考えられたのでしょうね。あの中に伊東先生のことがちょっと書いてあります。「満洲時代に伊東君の書かれた歴史観と自分の歴史観がよく似ているところがあって」と、例によって将軍は非常に謙遜な言い方をされていますが……。
そうだからという訳であるのかどうか知りませんけれども、「これを貴方に保管してもらいたい」と言って渡したらしいです。伊東先生は「いやあ、重大な原稿を私なんかに」と言ったのだそうですが、将軍は無理に「貴方以外にはいないんだ」と言って預けた。伊東先生は非常に遠慮したんだが、将軍は「無理に彼に頼んだ」と私は聞いています。
――そうだったのですか?
武田 青森県に伊東先生を中心とした財団法人の養生会というのがありますよ。今は学党の後継ぎもいないのでしょうから、どうなっていますかね。そこに行けば原稿は保管してあるはずです。

.. 2018年07月09日 12:01   No.1442011
++ 仲條拓躬 (平社員)…136回       
――それが『戦争史大観』の原本ということですね。伊東さんは『最終戦争論と戦争学』(大湊書房、昭和53年刊)という著書を出されていますが、おそらく『戦争史大観』(註)をもとに書かれたのでしょうね。(註:昭和16年4月8日、序文を東京にて脱稿、8月に中央公論社から発行予定であったが、立命館大学出版部刊の『国防論』とともに東條内閣で発禁処分になった)
武田 伊東先生は、将軍の言われたことを如何に忠実に周辺に伝えるかということに一所懸命だったですね。私も伊東先生から本を随分ともらいました。
石原将軍にも奥様にも、生死を見通す「透視能力」があった
――伊東さんにまつわる何かエピソードみたいなものは……。
武田 ある時、「伊東先生が死んじゃった」という情報が流れた。すると、将軍がシベリアのほうに向かって透視みたいなことをすると、「いや、伊東さんは健康だ」と言うのです。将軍には人の生死がすぐ判るらしいのです。そういうことを将軍は滅多になされないんですが、将軍ご自身の寿命にも関係するものかどうなのか、おそらくそうなのでしょうね。
また、津軽支部の同志で応召された人がおって、残された奥さんと子供さんが一人おりました。奥さんが旦那さんのことを非常に心配して、健康にさわるほど心配しているというんですね。その時も将軍はやはり戦地のほうを向いて、「元気よく勤務しておられる」と言われたのを僕は聞いたことがあります。
それに、僕もなかなか帰らなかったからね。僕の場合は「○○に捕まって殺された」という情報だったらしい(笑)。将軍はその時も満洲の方に向かって「いや武田さんは元気よくやっているよ。食欲旺盛だ」と言われたそうです。
――実際、そうだったんですか?
武田 ええ(笑)。銻子夫人もそういうところがあったんです。ある時、同志のおかげんが悪いという情報が来たんです。ある朝うかがったら、「誰それさんは亡くなられたようですね」と言われた。僕は「そうですか」と。そしたら間もなく「戦死した」という知らせが来たのです。これは将軍も、もちろん、知っておられたですね。

.. 2018年07月09日 12:07   No.1442012


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