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■--侵略軍は崖から落ちる
++ 仲條拓躬 (高校生)…67回          


石原莞爾平和思想研究会の同志が台北で、蒋介石の二男である蒋緯国に会ったと言います。1991年春のことです。取材の意図は、一口に日中戦争というが、実際に日本軍と戦った国民党側の軍事指導者たちはどのような戦略を考えていたか、を確かめたかったという。

蒋緯国はこの頃は三軍大学の学長というポストにあった。国民党の有力な家系の一員の紹介を受けていたので、蒋緯国はきわめて丁寧に、そして誠実に取材に応じてくれた。日中戦争8年の間に日本軍と中国軍とが正面から軍事衝突した回数は2800に及びます。

そのうちの8回程度は確かに共産党主導の戦闘であったが、残りはすべて国民党軍の指揮による戦闘だったというのである。したがって一口に「抗日戦争」といっても、それは国民党軍と日本軍との戦闘といったほうがあたっているのです。

同志が蒋緯国に会ったのは、台北市中央にある、かつて日本の台湾軍司令部の建物でした。今は三軍大学の事務室や学長室、教授室などに使われている。ここで蒋緯国から軍事的な内容を数多く聞かされたのだが、あえて領土問題を考える証言のみを思い起こすと次のような言があったというのです。

蒋緯国は、自らの部屋にある黒板をもちだしてそこに白墨を用いながら説明してくれた。「侵略する軍隊、つまり他国の主権に及んでいる地域に入ってくる軍隊というのは、その指揮官、兵士も含めて実は皆非常に脅えているのです。」

「そのためにこのような軍隊はひとつの場所にじっとしていることはできずに、とにかくやみくもに他国の領土を進んでいくのです。そして最後にどうなるでしょうか。その軍隊はやがて自分たちで崖から落ちて、自己崩壊するのです」

これはアレキサンダーだろうが、チンギス・ハーンであろうが、いやナポレオンの軍隊として同じだという。ドイツの陸軍大学で学んでいたときに、日独伊による防共協定が成立したために、しばらくしてドイツ側から申しわけなさそうに、「日本からあれこれ言ってくるのでドイツから出てほしい」といわれ、そこで蒋緯国は蒋介石の命令によりアメリカに渡り、そこで陸軍大学校を卒業したという。
.. 2018年05月07日 11:39   No.1394001

++ 仲條拓躬 (高校生)…68回       
侵略軍がとにかく直線的に進み、やがて絶壁に達してそこで次々に谷底に落ちていくとの喩えは、侵略軍は精神的に不安な状態にあり、とにかく前へ進むという心理以外に考えられなくなるということであり、そのような軍隊は補給が続かなくなって最後は自殺するような行為に走るとのことでもあった。

蒋緯国の言は、<広大な領土をもつ国への侵略は決して成功しない。なぜならそれは自分たちの心理の中にすでに敗戦を抱えこんでいるからだ>といった意味になるであろうか。あるいは中国を侵略し、それを自国の領土になどと考えるのは愚かにもほどがあるということなのだろう。

蒋緯国は、蒋介石の実子ではない。蒋介石の同志と日本人女性との間に生まれた子どもを蒋介石が育てたことになる。それだけに蒋緯国は日本に対して幾分の好意をもっているのではないかと同志は考えていたが、彼にはまったくそんな言動はなかったという。

日本の軍隊がいかに理に適わないことを行ったかを、たっぷりと時間をかけて説明したのである。「本当はわが国に侵略してきた日本軍の指導者は、精神的に不安で、そして脅えていたと思いますよ。とにかくわが国の領土を占領したといってもそれは一時的に日本軍の旗が立ったにすぎないということです。そういう旗などその気になれば私たちはいつでも奪いとることができたのです」

といった事も口にしていたが、同志は蒋緯国の説いた侵略軍はその恐怖感をもとにして、とにかく自分たちの旗を一時的にせよ立てたがるのだとのだと興味をもった。そしてそれから20年近くを経て、そのような資料を実際に確かめることになったといいます。

.. 2018年05月07日 11:57   No.1394002
++ 仲條拓躬 (高校生)…69回       
暴走する関東軍
日本の軍部は、満州を完全に手中におさめることを狙っていました。しかし、満州が外国であることに変わりはない。日本みずからが支配権を握ることは中国やロシアの手前も不可能でした。そこで、張作霖を傀儡政権にして彼を操り、満州支配を遂げたかったのです。

ところが、張作霖は、必ずしも日本の軍部の言うとおりにはならなくなっていた。張が東三省一帯に勢力を伸ばすまでは、彼も日本軍部を利用したが、北京で大元師となってからは、満州から日本勢力の一掃を考えるようになったのです。

また、張も孫逸仙とは違った主義で中国統一の希望をもつようになっていた。日本軍部からすれば、かえって張に利用されて裏切られたことになります。しかし、田中首相は、張作霖が満州の実権を握るただ一人として彼に期待をかけていました。

張が憑玉祥と戦って敗れた最初の昭和3年にも、彼が野望を抱いてふたたび北京に出ることを抑え、満州経営に専念すべきことを勧告しています。つまり、彼をあくまでも日本軍部の身代わりとして満州に温存したかったのです。

もし、蒋介石の国民党軍に大敗を喫したとなると、張の没落は必至となります。そのあと、張のように日本軍部のいいなりになってくれる将軍は見あたらない。田中がしきりと張に北京から満州に引揚げするようにすすめたのは、その意味だったのです。

しかし、関東軍では、全面的に日本のいうことを聞かなくなった張にかなりの不信をもつようになっていました。満州治安維持の宣言が田中内閣によって発せられたとき、旅順にあった関東軍が奉天に進駐したのも、一つは現地軍の積極的な要求があったからです。

遼東半島の先端にある旅順よりも、東三省のど真ん中の奉天に軍を移したほうが満州支配には他の利を占める。このことは、はたして列国、ことにアメリカの疑惑をおこさせる結果となったのです。

それまでの田中の方針は、東方会議の決定どおり、満州の治安維持を中心とする積極策だったが、アメリカ国務長官ハルから、「日本は満州に対して何らかの積極的行動に出るのではないか。もし、そうなら、事前に米国にその内容を示してほしい」

.. 2018年05月07日 12:51   No.1394003
++ 仲條拓躬 (大学生)…70回       
という警告的要求が強く出されると、田中の腰は砕けた。米国の警告は、当然、関東軍司令部の奉天進駐という事態では予想されることだった。ただ単に司令部の奉天移転だけではない。それにともなって大連から移動した、莫大な数の日本軍隊のつぎの行動が米国の関心の的だったのです。

明らかに関東軍は何かを予定している。それが何であるかは具体的にはわからないが、のちにおこった盧溝橋事件のようなものを発生させ一挙に満州占領という行動を計画していたことは考えられる。

表面上は張作霖軍が北伐軍に敗れて関外に敗走した場合、日本軍が駐留地から出て、「満州の治安維持」の名のもとに張軍を武装解除するにあった。しかし、その結果は、満州占領に到達する。関東各省会議でこの方針が決められたとき、時の関東軍司令官武藤信義大将は田中に覚悟をきいている。

「これは決して欲することではないが、それだけの大方針を実行に移すには、そのために世界戦争がおこることも覚悟しなければならない。少なくとも米国は黙っていない。米国が黙っていないとすれば、英国も、その他の列国の、その尻について騒ぎたてることになるが、その米国に対する対策、また世界戦争がおこった場合にどうするか、その決心と用意はあるか?」

田中首相は、これに対して、「おら、決心がある」と言下に答えた。武藤は重ねて、「あとになってぐらつくようなことはないか?」と念を押した。すると、田中はまた、「おら、大丈夫、決心している」と断言した。

そこで、武藤は、「政府にそれだけの決心と準備があれば、何もいうことはない。われわれはいつでも命令一下政策の遂行にあたるだけだ」と答えたという。「政策の遂行」が満州占領の軍事行動にあったことは間違いない。

また武藤の田中への質問は、関東軍を代表して、米国の横槍で政府がぐらつくことはないか、大丈夫か、というだめ押しだが、また、それによって暗に田中に圧力をかけたとも解せられるのです。ここから関東軍は暴走して石原莞爾の理想国家建設が崩れ始めるのです。

満州国に関する限り、決して植民地国家ではなく、欧米の帝国主義支配を排してアジアに理想国家を建設する運動の場でありました。満州国建設は一種のユートピア実現の試みで建国育成は、歴史上前例のないトライアルです。

.. 2018年05月07日 13:14   No.1394004
++ 仲條拓躬 (大学生)…71回       
侵略、植民地化万能の歴史的時代にあって、満州の地に民族協和する理想国家を作ろうとしたことは、日本民族の誇りです。少なくとも石原莞爾は日本と中国の安定、日中の平和的提携関係を求め続けたのは歴史の真実なのです。この事をマインドコントロールされた日本人の呪縛を解く為に語り継がれて欲しいのです。
.. 2018年05月07日 15:14   No.1394005
++ 仲條拓躬 (大学生)…72回       
残された者の歩きかた 投稿者:タク 投稿日:2012/05/02(水) 18:31

この頃、食事をする度に一瞬、考えてしまうことがある。粗食なもの、比較的質素なものなどを食べる時は、そうでもない。いわゆる懇親会などでご馳走をいただくときに、なんとなく躊躇する気持ちがあるのです。

「こんな時に、こんなに旨いものをたらふく食べてもいいものだろうか」と、ふと思う。また、出された食事をカメラに収めてツイッターやフェイスブックにアップロードするときも申し訳ない気持ちで作業してしまう。

被災地に住む方やアフリカの難民のニュースをテレビの報道番組で見たあとは特にそうだ。世界中のさまざまな飢餓の現状を知った直後など、以前からそんなことがしばしばあった。もっともそれは食事前の一瞬で、あとはたちまち食うことに夢中になるのが常です。

飢餓線上にある人数と、栄養過多の肥満でダイエットに苦しむ人の数がほとんど等しい、などと教えられると複雑な気持ちになったりもする。しかし、この度の東日本大震災のあとは、今もずっと食事のうしろめたさがつきまとうのは、当然のことかもしれない。

あまりにも衝撃的な映像を目にしすぎたせいか、夜、寝る時もなんとなく心苦しいのです。これは単なる同情心とか、共感共苦の感情とかいった高尚なものではない。情緒的な後ろめたさでもない。なんといえばいいのだろう。どうもうまい言葉がみつからないのです。

津波で義理の兄が亡くなりましたが、さしずめ、「生き残ってすみません」とでもいおうか。その感情は今もずっと続いている。父はよくお米を一粒でも残すようなら怒鳴られました。また、食べたくても食べられない人がいる話は繰り返し刷り込まれた。

父はいわゆる昭和ヒトケタ派の世代です。第二次世界大戦のさなかに子ども時代をすごし、少年時代に石原莞爾将軍に遣えて終戦をむかえた。石原莞爾平和思想研究会の同志の仲には学徒動員で戦場へとおもむいている。

当時、旧制中学校を主席で卒業した父が真っ先に石原莞爾将軍の下に馳せ参じたことが元酒田市長のお手紙に書かれています。

.. 2018年05月07日 15:23   No.1394006
++ 仲條拓躬 (大学生)…73回       
先輩たちは、兵士として続々と戦場へむかい、当時の言葉でいえば、見事にお国のために散華したのである。父は敗戦のとき、ギリギリのところで少年兵を志願できなかった。そして結果として生き残った者の一人となった。生き残った者としてのうしろめたさは、父にもあったのでしょう。

戦後、石原莞爾平和思想研究会の前身である「東亜連盟」はマッカーサーから解散させられた。無法地帯で大山倍達などと空手を学び体を鍛えた。生き残ったことすら偶然である。しかし、偶然にしろ、幸運にせよ、生き残ったことは、決して誇れることではない。

むしろ、その反対である。戦争の時代に命を失った人びとが無数にいた。兵士として無意味に死んでいった者。敵空軍の作戦上の一環として焼かれた者。核兵器の犠牲となった者。そのほか戦争で死んだ人びとは無数にいる。

父の世代は、その死の世代を生きのこった者たちである。そして、終戦時に外地、すなわち旧日本帝国の植民地に住んでいた者たちは、さらなる差別を受けることになる。父は終戦の夏、広島にいた。広島は3月と4月に小数機が来襲しただけでした。

その頃は東京はじめ主要都市は焦土と化し、軍港のあった海軍中佐である祖父・父の生まれた呉市も、6月から7月に大空襲を受け壊滅していた。広島市民たちは広島が爆撃されないのを不思議に思っていたし、反面いつやられるのかという思いの毎日を送っていた。

そしてついに広島に原爆が投下された。父は広島市に足を踏み入れてしまった。修羅場のなかで、放射線量が高い中、倒れずに生き残った人間には、みな見えない差別がある。それは生き残り、という差別なのであろうか。

.. 2018年05月07日 15:34   No.1394007
++ タク (社長)…437回       
うどんはどこから伝わったのか

讃岐うどんの名声は全国区といってもいいでしょう。太くてもっちりとした歯ごたえ、ずっしりと重い麺は、うどんの代表選手にふさわしいです。それとは対照的に柔らかい伊勢うどんや博多うどんのほうがいいのだ、とするむきもありますが、香川県がPRする「うどん県」に納得する人も多いのではないでしょうか。

讃岐がうどんの名産地になった背景には弘法大師空海にまつわる伝説があります。空海は、いまの香川県善通寺市で生まれ、延暦二十三年(804)、留学僧として遺唐使に加わり、唐で密教をきわめました。唐の都・長安で修行した空海は、数々の密教の経典とともに、寺で食べられていた「フォウントン」のつくりかたを日本に持ち帰りました。

だから、讃岐でうどんが始まった、といいます。空海の甥で、十大弟子のひとりの智泉の故郷である綾歌郡綾川町滝宮には、智泉が空海から、うどんの作り方を教わって広めたという話が伝わっています。綾川町は、「うどんの発祥の地」にふさわしく、生卵と熱々のうどんをからめる「かまたま」で有名な「山越うどん」をはじめ、製麺所や専門店が多い。

空海が伝えたいという「フォウントン」は、いまのような麺ではなく、水でこねた小麦粉を団子にして薄く手延ばして茹でる、という餃子の皮のようなものでした。熊本県、大分県などの「団子汁」、大分県の「ほうちょう汁」、栃木県の「ひっつみ」、群馬県、埼玉県北部の「おっきりこみ」、東北地方に広く分布する「はっと」などなど。

うどんの原型と思われる郷土料理は数多いです。香川県は、降水量が少なく、乾燥に強い小麦の生産が盛んです。明治初期の調査では、高知県や愛媛県にくらべて、圧倒的に小麦の作付け面積が広い。さらに製粉の技術も古くから発達していました。

小麦を粉にするには石臼でひく必要がありますが、牛や馬をつかって石臼を回したり、水車などで製粉する技術はなかなか発展しませんでした。石臼をひくのに人力で回すしかない地方では、労力がかかるために、日常的に小麦粉をつくる余裕がありません。

.. 2018年05月07日 15:53   No.1394008
++ タク (社長)…438回       
だから、粉食ではなく、粒食が主流になって、小麦粉で団子をつくるのは、儀礼や祝いの日ぐらいのものだったのです。しかし、讃岐では、平安時代頃は既に水車がつくられていた。坂出市を流れる綾川流域では、仁和年間(885〜888)に水車をつかっていたという。

海に面しているから塩も手に入りやすく、製粉技術が発達した讃岐で、日常的にうどんが食べられるようになったのは、当然の流れだったのでしょう。10世紀に成立した日本初の漢和辞典「倭名類聚抄」には「フォウントン」という言葉が載っていて、「小麦粉を水で練りめん棒でのし方形に切る」とある。「フォウントン」の中国語読みは「ハウトン」です。

この発言から連想されるのが、甲州名物「ほうとう」でしょう。戦国時代に武田信玄が、陣中食として考案したという伝説があり、ダイコン、ネギ、ゴボウ、サトイモ、シイタケ、ハクサイなど季節の野菜をふんだんに入れた煮干し出し汁に幅広の手打ちうどんを入れて煮込む。陰の主役は油揚げです。

甲州ではことがうまくいったときに「うまいもんだよ、カボチャのほうとう」というようにカボチャが入ったほうとうが人気で、味噌ほうとうもあります。土産物にもなっている「ほうとう」は、小麦粉を練るときに塩をつかっていない。煮汁に入れて煮込むので、塩が入っているとしょっぱくなりすぎるからだし、甲州では塩は貴重でした。

上杉謙信が塩不足に悩む信玄に塩を送ったという故事をみても、塩をつかわなかった理由がわかります。武田信玄の旗印「風林火山」は、中国の兵法書『孫子』の一節からとったものです。中国の古典に通じていた信玄が、「ハウトン」の調理法を知って陣中食に採用したとうことも考えられることでしょう。

ただ、信玄が甲州に出入りしていた高僧から製法を教えられて採用したという説が有力のようです。空海が持ち帰ったという「フォウントン」と「ハウトン」の関係はわりません。ただ、中国で団子を薄くのばして茹でていた「ハウトン」は、日本に伝わって、「ほうとう」になったようです。

鎌倉時代から室町時代にかけて、「ほうとう」はすりつぶしたヤマノイモと米粉をまぜて練るかたちになり、江戸時代に入って小麦粉をつかうようになりました。つまり、信玄は採用した「ほうとう」は小麦粉ではなく、米粉をつかっていた可能性もあるのです。

.. 2018年05月07日 16:08   No.1394009
++ 堀やすよ (幼稚園生)…1回       
機動隊員の向こう側の権力を見据えてノーを突きつけていく
 |  たんぽぽ舎辺野古応援ツアー参加者からのひとこと
 

◎ 4月24-27日の三泊四日で辺野古ゲート前での座り込み行動に参加してきまし
た。
 企画して下さった山田ご夫妻には本当に頭が下がります。
 総勢24名のエアチケット、宿泊先、車の手配、食事の手配などなど、パズルを
組むような緻密な作業をこなして私たちを全員無事に抗議行動に参加させて下さ
ったことに、心からの敬意を表します。

◎ 三日間に渡る座り込み行動は、体力的に厳しい反面、集会では歌あり踊りあ
り、アメリカの退役軍人のアピール、心を揺さぶられる金城実さんのスピーチ、
俳優右田隆さんの一人芝居、力強い新月灯花の演奏と歌声、などなど、その場に
いるだけで心躍るものがありました。
 目的とする工事阻止までは行かなかったものの、私達が参加した三日間だけで
も300台ほどのトラックを止めたことは、人が大勢集まれば何かしら出来るという
ことだと思います。

◎ そのような抗議行動の中で心に残った一つの体験を書かせて頂きます。
 機動隊と対峙した時、私は思いがけず最前列に出ていました。機動隊は殆どが
まだまだ若く少年のような若者達。
 私はその時、前にだけつばのある帽子を被っていたのですが、こちらを向いて
対峙する若い機動隊員の胸に私の帽子のつばが当たります。
 お互いに後ろから押されるので、私は「決してあなたが敵ではないんだからね」
と言いながら帽子を回して、つばが彼の胸に当たらないようにしました。
 その後、その場で座り込みをし、私たちは簡単にごぼう抜きされ、3〜4人の
機動隊が私たちを一人ずつ持ち上げて装甲車とフェンスで囲われた狭い空間に運
び込みます。
 その中ではトイレも自由に行けず、山城博治(沖縄平和運動センター議長)さん
が交渉してやっと数人ずつトイレに行くことができ、でも出た人数が帰らなけれ
ば次の数人をトイレに行かせることはできないという、人権を無視した状況が続
きました。
 

.. 2018年05月08日 09:19   No.1394010
++ 堀やすよ (幼稚園生)…2回       
しばらくして一人のお年寄りがトイレに行けずその場で座り込んでしまったの
で、近くにいた私は、私達を通すまいとしている機動隊員に強く抗議をしました。
 その時、一人の機動隊員が「待ってくださいね、今トイレに送る車を見てきま
すから」と。それは、先ほど私と対峙していた例の機動隊員でした。
 時として機動隊員の横暴は目に余るものがあり、私達をごぼう抜きする時の手
荒さは許せないのですが、彼らもまた上司の命令に背くことはできない存在。

◎ 私達は直接的には彼らと対峙せざるを得ないのですが、いつも彼ら自身では
なく、彼らを通してその向こう側の権力を見据えてノーを突きつけていくという
気持ちを持つことも必要だと思わされた体験でした。


.. 2018年05月08日 09:32   No.1394011


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