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戦後半世紀以上、日本は平和です。だが、ドイツ・イタリア・日本の敗北後の世界は、米ソ超ニ大大国の対立により、1950年の朝鮮動乱をはじめとして、四次に至る中東戦争、1963年キューバ封鎖、1965年アメリカの北ベトナム爆撃に始まる8年に及ぶ直接的あるいは間接的関与の対立であり、共々軍事費を浪費、自国経済の弱体化に手伝いする破目となった。
米ソは、1972年のモスクワ会議以来、デタント外交に転じました。1990年、ベルリンの壁崩壊、東西両ドイツ統一、翌1991年、ソ連邦崩壊、ロシアとなりました。米ソは、同じ文明層にあって若く、ギリシャ文明を祖とする同族です。
十数年の戦争遂行によって、完全に疲弊し切った敗戦国日本の第一の課題は食糧確保が絶対でした。食糧自給力の向上に伴い経済力を志向するは当然の事です。所謂「貿易立国」は時の政府の至上命題となり、1960年代には所得倍増の旗印を掲げ、昭和40年代には驚異的経済発展、アメリカに並ぶ経済大国となりました。
日本民族の長年の苦悩から得た勤勉と特性の賜物であり、外国人のみる奇跡的経済発展そのものは評価すべきものでしょう。しかし、視点を換えると西洋物資文明の踏襲に外ならず、当時の日本人はその優等生でした。
貿易立国は、当然経済優先となり、昭和37年以後は農業自立が不可能となり、農村経済を圧迫していきました。当然商業主義に発展、利益本位は経済摩擦を生み、国際政治上の課題となり反復する。庶民大衆は、物質文化を楽しみ、便利を謳歌する中で資本は巨大化し、資力が覇力となるのです。
個々もまた利害で対立、自然利己的となり、国民道義は方便と化し更に堕し、犯罪も低年齢化し更に深く、今や社会の大問題です。あの敗戦の時代、勤勉と希望だけは残っていた筈なのに、それから有余年のいま、「この国は一体どこだろう」と思わせるニュースで満配です。
昭和24年7月、自らの死期を感得した石原莞爾将軍は、「新日本の進路」と題する一文を草し、同7月8日付で時の最高権力者連合軍最高司令官マッカーサー元帥に、建白書として進言しています。権力者に対するその要旨は、時代と文明にかかる諌言である。
.. 2018年03月09日 10:50 No.1352001
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