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領土争いの時代から現代まで、ヨーロッパでは国境線がめまぐるしく変わっています。旧ソ連は15の共和国に分裂し、東西に分かれたドイツは冷戦終了後に統一されました。なかでも最も多く国境線が書き換えられているのが「旧ユーゴスラビア」でしょう。 ユーゴスラビアは、「南スラブの国」という意味です。「ひとつの国家、ふたつの文字、3つの宗教、4つの言語、5つの民族、6つの共和国、7つの国境線」といわれた典型的なモザイク国家で、第一次世界大戦後の1918年に成立しました。 第二次世界大戦後は「建国の父」であるチトー大統領が、カリスマ的な指導力で国家をまとめていましたが、チトーの死後や東西冷戦終結で国家としての団結力を失い、代わって各共和国の民族意識が強まっていました。 さらには共和国間の経済格差の問題も噴出しました。こんな状況で台等したのが、民族主義者、ミロシェビッチです。「セルビア人第一主義」を唱えるミロシェビッチは、異民族であるコソボ自治州の自治権を事実上廃止したのです。 これを目の当たりにした他民族は、「次は自分たちが弾圧される」という危機感を抱き、それぞれ独立に向かって歩み始めたのです。内戦や独立戦争で、「民族浄化」の名のもとに多くの血が流れ、NATO軍による空爆もおこなわれました。 その結果、旧ユーゴは解体。現在は、クロアチア、スロベニア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニアの6つの独立国に分かれているのです。 石原莞爾の満州での構想は、南下するロシアの勢力を、ソ連の国境線で食い止めなければアジアの安全は保障されず、その防衛は中国の民では不可能と判断したからです。石原莞爾の心中深く秘められた対策は世界の平和であって、その前提としてアジアの平和があり、その第一路線はソ連の国境線にあったのです。 アジア人をこよなく愛していたので、戦争で中国人の恨みを買うことは極力避けたのです。石原莞爾の行動はすべて戦争史観に発足しています。戦争史観を確立したのは、革命精神です。世界の現状を大観して英米を中心にしたアングロサクソン民族の植民地世界の現況は革命さるべきであると考え、古戦史を研究して、戦争史観を確立し、その可能性に自信を深めて、まずアジアの大同団結に着目したのです。
.. 2018年02月13日 11:27 No.1333001
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