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■--悲劇の将軍
++ 六 (高校生)…69回          

石原莞爾のことを書くのに悲劇の将軍というタイトルをつけた人がいる。けわしい道を歩くことになった人だけれど、どうも悲劇という感じがしない。他人としてみれば、喜劇になりそうなところもある。彼自身も最晩年にふりかえって、感謝にたえない一生であったという意味のことを手紙に書いている。人のことはわからないけれど、悲劇の将軍といえば、むしろ阿南惟幾などが、悲劇中の人物と思う。自身は前線で兵士とともに死ぬのが、本望であったろうが、陸軍大臣になって、板ばさみになって苦しんだように思える。そして武人としては立派かどうかしらないが、大臣としては正しい判断とは評価できない自決をもっておわったのは、運命の悲劇に思えるが、これも本人はどう感じていたかはわからない。
.. 2008年05月17日 21:23   No.130001

++ 伝 (大学生)…78回       
一皇族の戦争日記に次のような箇所がある。
「・・・大東亜戦争解決の第一歩は、重慶との和平にある。これがためには、小磯内閣ではだめである。故に小磯内閣を倒し、東久邇宮内閣を組織し、三笠宮を支那派遣軍総司令官として、重慶と和平しなければならない。そうしなければ日本は滅亡するだろう」それから次のように、私と石原は問答した。
石原「あなたは陛下に、小磯をやめさして、あなたが内閣を組織するように申し上げなさい」
私「私はそんなヒットラーやムッソリーニみたいなことはできない」
石原「いま国家が滅亡するかどうかという時に、皇族は重大責任がある。もしあなたがいやというなら、あなたは日本はじまって以来の大不忠の臣である」
私「たとえ大不忠の臣となっても、私はヒットラーのようなことはできない」
石原「それでは、私はもう一生あなたのような人にはお目にかからない」
石原はそういって、十時ごろ憤然として辞去した。私に向かって「不忠の臣」などといったのは、石原ぐらいのものである。」
これだけ読むと石原という人にはあきれるほかないが、実は充分考え抜いて勇気をもって言っているのだと想像される。

.. 2008年05月18日 18:44   No.130002
++ タク (部長)…220回       
陸大教育の内容を考えていくと、石原莞爾のようなユニークな人材が出たのは希有なことです。石原莞爾は授業を殆どサボって、毎日別の本を読んでいました。試験前にザッと見るだけで、それでも陸大を二番で卒業しています。陸大出には珍しい戦略家タイプです。対米開戦時に東条英機の副官を務めた西浦進氏は戦後になって、同期の堀場一雄、服部卓四郎と三人で、戦時中の陸軍の名将を五人選んだことがあったそうです。そのとき全員一致で石原莞爾を一位に選んでいます。ちなみに二位は板垣征四郎、三位は阿南惟幾、四位は今村均、五位が安達二十三の順でした。

.. 2008年05月22日 18:30   No.130003
++ タク (部長)…221回       
 昭和19年に、東條英機内閣が総辞職して小磯国昭内閣が発足したこの年暮れ、繆斌工作が持ち上がりました。日中和平工作です。首相の小磯を動かし、南京政府考試院副院長の繆斌を仲介として、重慶の中華民国政府の蒋介石との和平工作の推進を提案したのです。工作にたいして陸相の杉山元大将、海相の米内光政大将、外相の重光葵は繆斌が信頼できないとして反対したが、小磯首相は、繆斌を東京へ呼び寄せ、小磯、緒方、東久邇宮稔彦王と面談して、石原莞爾先生も上京して繆斌と語り合いました。だが、最高戦争指導会議で意見がまとまらず、天皇も小磯に消極的態度を示したため、小磯内閣は総辞職、鈴木貫太郎内閣が発足して、繆斌も帰国、和平工作は失敗したのです。
.. 2008年05月22日 18:39   No.130004
++ 伝 (大学生)…79回       
石原莞爾が東久邇宮内閣をつくるべきことを話ししたのが昭和19年九月のことで、重慶との和平はミョウヒンを使者としておこなわれる話がでてきて、昭和二十年四月には小磯首相が、外相、陸相、海相の反対するなか、昭和天皇に上奏した。内容はわからないが、陛下に命令していただきたいということだったかもしれない。昭和天皇がミョウヒンに対して信頼できないと考えられたかどうかわからないが、直接お会いになったわけでもなく、重臣のなかでも限られた情報しかなかったわけだから、命令するほどの確信はおありでなかっただろう。責任者をとびこして命令するという超非常手段は陛下はおとりになったことがない。重光外相は外交大権とか言ったらしいが、やめてしまえば責任のとりようがないのだから、よくよく考えて判断しなければならないことであった。まちがったらどうなるということをよくよくかんがえなければならない。しかし、これは言うは易く行うは難しで、行うことができた人にたいしては感嘆するほかない。できない人は反面教師だ。
それで石原莞爾の先見の明には関心する。ところで一生お目にかからないと言った東久邇宮とは昭和二十年四月にミョウヒン問題について話あっているようだ。石原莞爾の発言は、その行動とてらしあわせて、判断しないと、真実から遠くなる。

.. 2008年05月24日 12:23   No.130005
++ タク (部長)…222回       
石原莞爾は敗戦直後、「降伏内閣」を組閣した東久邇宮から、内閣顧問になるよう依頼されましたが、政治の動向にほとんど関与しませんでした。石原莞爾が顧問就任を断ったのは、東亜連盟理念の普及のために、時間を使いたいという理由のためだったのです。

ちなみに、靖国参拝問題というのは、昭和60年に中曽根康弘総理大臣が靖国神社に公式参拝したことを、中国などが批難したのが始まりです。そこで翌年の昭和61年、中曽根総理は参拝を取りやめたのです。理由は、「近隣諸国に配慮して」ということです。戦前は当然総理大臣の皆さんは参拝していたのですが、戦後も東久邇宮首相にはじまって、殆どの首相が靖国神社に参拝しているのですよね。

.. 2008年05月25日 08:19   No.130006


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