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■--満洲事変の張本人
++ 六 (高校生)…62回          

昭和天皇独白録には、満洲事変についての記述はないのであるが、2、26事件のところで「満洲事件の張本人でありながら、この時の態度は正当なものであった」と昭和天皇がおっしゃられたことになっている。これは昭和天皇のお言葉そのままではないと思われる。また満洲事件というのも寺崎英成が満洲事変を満洲事件と書きまちがえたわけではあるまい。しばしば満洲事変の張本人と言われのは、悪いことをした張本人の意味で使われているようだが、その張本人は昭和十三年次のようなことを言っている。信仰上の同志の人々にむかって言ったらしい。「大聖人の御遺文に、強きを恐れ、弱きをおどす、これ畜生の心なりとありますねえ。いま日本は、米英と見れば大阪商人のようにモミ手をしてヘイコラし、支那に対してはチャンコロと言って、いじめている。これは国の大謗法です。これを呵責せずして法華信者の面目はどこにありますか。云々」。勿論これは石原莞爾の言葉そのままではないだろうが、昭和十三年(開戦三年前)に米英にヘイコラ?していたというのは、事実を調べる必要がある。ところで、大阪商人というのがちょっと気になっていたのだが、「満洲事変から日中戦争へ」(加藤陽子著)をぱらぱら見てると、こんなことが書いてあった。「リットン調査団が日本を訪れていた32年3月、大阪商業会議所は次のような覚書を調査団に手渡していた。いわく「満洲の変乱を惹起せるは(中略)支那が条約により日本に認められたる権利を尊重せず、日本をして其の権利を確保するため、正当防衛の行動に出ずるの外なからしめた。」」
文脈があるから、ちがうかもしれないが、もし「張本人」が、この理屈を読めば苦々しく思ったにちがいない。満洲事変については、張本人、軍部中央、政府、国民と考えにズレがあった。ズレだけでなく正反対の考えもあった。しかし「張本人」達のほかの多数は満洲を権益の生命線と考えていた。
.. 2008年03月30日 12:59   No.126001

++ タク (部長)…213回       
天皇の意向と、呼応するように、いち早く討伐の方針を打ち出し、事態を動かしたのは石原莞爾でした。『独白録』で昭和天皇は、満州事変を主導した(つまりは統帥権を公然と踏みにじった)石原莞爾が、2・26事件では、率先して陛下の意向を実現したことを奇異に感じられた言葉を残しています。

石原莞爾が、26日の段階で磯部ら決起部隊の首謀者に鎮圧にあたることを明言し、事態の穏便な収拾を図ろうとしていた軍事参議官会議に圧力を加えた。27日午前8時に石原莞爾は、杉山参議次長を促して参内せしめ、奉勅命令を伝えさせた。

すでに午前3時に緊急勅令が下され、香椎中将が戒厳司令官に任命されていた。東京地域を対象に下された戒厳令は、内地でははじめて発動される「戦時戒厳令」であって、いうまでもなく軍事力による鎮圧を想定したものでした。

.. 2008年03月31日 11:41   No.126002
++ 六 (高校生)…65回       
盧溝橋の事件がおこったのは、昭和12年7月7日夜半であった。(七夕の夜に事をはじめるなんて性格悪い奴)。この時は石原莞爾は参謀本部第一部長だったが、8月初旬、近衛総理に次のように言ったという。「あなたは総理大臣であるから、事変解決のために南京におもむき、蒋介石主席と直接話し合って国交調整をなすべきである。その場合はこの石原も同行するから、大至急この事を取りはからうようにして貰いたい」。これには内閣書記かん長風見章から、「南京行きは見合わせる」という返事がきた。内務大臣末次正信海軍大将はこの件についての意見をきかれて「それは大変だ、それこそまた東京事件だ(2,26事件のような事件がまたおこる)」と答えたという。これを聞いて石原は「陸軍大将や海軍大将の十人、二十人殺される事ぐらいが何で大変なんだ。この石原が真っ先に殺される覚悟で行こうというのだ。老いぼれて役にもたたない陸海軍の大中将が、二、三十人殺されるだけで、この東亜の大難が救われるなら、それこそ有りがたいことではないか」と言ったという。かならずしも言う必要のない悪口がまじっている気がするが(石原という人は言わなくてもいいことまで言うという批判がある)、石原という人は、なすべきことだと判断したら、殺される覚悟の行動をすぐにとれた人だと思う。実際戦争犯罪の裁判では、大将中将で汚名をきせられて死刑になった人は二三十人ではきかないだろうから、石原の言っていることはまったく正しいことを言ったのだと思う。
.. 2008年04月13日 10:43   No.126003
++ タク (部長)…215回       
同じ場面の出来事ですが、近衛首相に電話をかけ、「閣下、飛行機で、南京へ私と飛んで、直接、蒋首席とおあい下されば、話はすぐにわかります。中間の雑音を取り除くため一切秘密に中国に対して、日本は、何ら領土的野心をもっていない。中国と戦う考えは毛頭ない。陸軍も海軍も、直ちに中国から引き上げさせる。日本の希望は、中国との経済提携、満州国の独立、ソ連に対して、十分な国防態勢がととのい、日本も安全だが、中国も安全であるということを強調してください」といったのだが、近衛首相の優柔不断は毎度の事だが、この機に、政治的大英断が実現しなかったことを、石原莞爾は残念がっていました。

近衛首相が、御信任もあつく、国民の信望もあって、三回も内閣を組織して、難局に当ったからには、大きな胆力がほしかった。陸海軍の協調を計る為に、東条を押えることが出来なかったと手記に残されているが、軍はもとより、国を挙げて、事変から戦争へと戦勝の強気に酔っている時に、石原莞爾の提案した無条件にも等しい対華講和を、胆力あって、大英決断を下すにも、それが許されない、日本の政治情勢であり、悲しき日本の運命であったと言えます。現に、石原莞爾自身がこのために、左遷されているのですから軍閥は、参謀本部に石原莞爾がいては、日華事件を拡大する事が出来ないといい、石原莞爾を墓場へ送り込むことも難しいと見るや、左遷の辞令を出す事となったのです。

.. 2008年04月15日 11:38   No.126004
++ 伝 (大学生)…77回       
昭和天皇独白録の「支那事変と三国同盟」のところは、そうとうおかしい。寺崎英成の誤解があるように思う。しかし聞いたことをメモしたものとして誤解を除去して考えると、昭和天皇に重臣の誰かがウソをついていたことになる。「日支関係は正に一触即発の状況であったから私は何とかして、蒋介石と妥協しよーと思ひ、杉山陸軍大臣と閑院宮参謀総長とを呼んだ(中略)若し陸軍の意見が私と同じであるならば、近衛に話して、蒋介石と妥協させる考であった。これは満洲は田舎であるから事件が起こっても大した事はないが、天津北京で起こると必ず英米の干渉が非道くなり彼我衝突の虞があると思ったからである。当時参謀本部は石原莞爾が采配を振るっていた。参謀総長と陸軍大臣の将来の見通しは、天津で一撃を加へれば事件は一ヶ月内に終わるといふのであった。これで暗に私の意見とは違っていることが判ったので、遺憾ながら妥協のことは云ひださなかった。かかる危機に際して盧溝橋事件が起こったのである。」これは盧溝橋事件がおこってから杉山陸軍大臣と閑院宮参謀総長をよんだのではないか。衝突前から天津で一撃を加えるなどというのは変でないか。石原は6月には盧溝橋付近の空気があやしいとにらんで、岡本中佐を派遣している。盧溝橋事件がおこってから後の七月28日三個師団の動員をしたのは、ニコライエフスク事件のような結果になるのをおそれたからといわれている。動員下令のことを奏上のため参内した杉山陸相に陛下から「シナ本土に戦線が拡大すると、長期戦になるからいけないという意見があるが、それでも出兵するか」とのご質問に対し、一ヵ年くらいでかたずく旨奏上したと伝えられている。事変がかたづきかけたところで、8月13日戦火は上海へとびうつった。「独白録」では、「その中に事件は上海に飛び火した。近衛は不拡大方針を主張していたが、私は上海に飛火した以上拡大防止は困難と思った。当時上海の我陸軍兵力は甚だ手薄であった。ソ連を怖れて兵力を上海に割くことを嫌っていたのだ。湯浅内大臣から聞いた所によると、石原は当初陸軍が上海に二ヶ師団しか出さぬのは政府が止めたからだと云った相だが、その実石原が止めて居たのだ相だ。二ヶ師の兵力では上海は悲惨な目に遭ふと思ったので、私は盛んに兵力の増加を督促したが、石原はやはりソ連を怖れて満足な兵力を送らぬ」とあるが、これはまったくでたらめである。おそらく寺崎のききあやまりであろう。しかし湯浅内大臣が石原の考えを誤って陛下に伝えた可能性については検討しなければならない。
.. 2008年04月17日 21:19   No.126005
++ タク (部長)…216回       
第二次世界大戦の頃の国際ユダヤ財閥会議の中心人物は、上海のユダヤ財閥シャンハイ・アンクルと呼ばれるE・D・サッスーンの総帥ダビッド・E・サッスーンです。石原莞爾はサッスーン財閥がどのような商売をして財をなし、またアジア全土でどのような事業を展開するかも知っていました。石原莞爾が中国での不拡大方針を叫んだのは、上海ユダヤ資本に操られている蒋介石との関係を刺激したくないこともそのひとつだったと思います。

サッスーンを含め、ジャーナリストの地位をうまく利用して日本の政府要人と会って情報を取り入れていた上海ユダヤ協会機関紙主幹のN・E・Bエズラもその1人です。エズラは上海と東京を結ぶ情報屋で、上海から世界中のユダヤ人向けに発信していました。ユダヤ人は国を追われ、1ヵ国に定着せず、世界中の組織と連絡をとり合っていたのです。

そのエズラも、蒋介石を支援しながら、満州開発に乗り込もうとしていました。彼は指折りの親日家で、度々来日しています。神戸在住のユダヤ商人ケンタッキーには、日本政府や軍の動きを探らせていました。エズラは本業が土木建築業で、ジャーナリストの肩書きを持ち、極東ユダヤ資本家の満州投資計画のために調査業務を下請けしていました。サッスーン財閥もそのひとつで、エズラの調査をもとに、満蒙で畜産事業を計画しています。そのため、日本人の獣医を顧問に、満州に送り込んでいたのです。

.. 2008年04月18日 11:57   No.126006


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