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■--石原莞爾と東京裁判
++ 六 (高校生)…55回          

粟屋憲太郎の「東京裁判への道」を読んでいると、次のような箇所があった。「石原の調書を読むと、これまで石原の信奉者たちが語りついできたように、「なぜ自分を戦犯としないか」と検察官に迫ったというような毅然とした姿はみられない。」と。粟屋憲太郎は公平な学者と思われるので正直な感想であろう。しかし誤解を招く表現である。だいたい調書に石原莞爾の毅然とした姿をたとえあったとしても記録する筈がなかろう。誰が、「自分を戦犯としないかと検察官に迫った」ということを言っているのかしらないが、検察官にそんなことを言う筈がないと思う。酒田での裁判では、裁判長のノースクロフト判事に「満洲事変の中心は自分である。この私を戦犯としてひかれないのが不思議である」という意味のことを言ったと伝えられているが、これは言いそうなことである。だいたい満洲事変の当時は最大の功労者は責任者の本庄司令官になっていたと思う。その本庄司令官が全責任を自分に帰して自決しているのだから、その行為発言を無にするようなことは石原莞爾は言わない筈である。しかし満洲事変の中心は自分であるくらいのことは彼の人間性からして、言ってあたり前である。裁判になれば人間の位がちがうのだから、検事などを圧倒しても何の不思議もない。まあ、あまり言う必要もないことだが。
.. 2008年02月16日 20:27   No.121001

++ 六 (高校生)…56回       
石原莞爾という人は素質的にすぐれたところがあったように思う。私は自分が、そんなにすぐれていないから、そういうところは、それほど感心しない。それは、もともとだからだ。しかし、努力して向上していったところは見習わなければと思う。私はそういうところに着眼しようと思っている。えらかった、すごかったでは、ああそうですかというだけだ。
.. 2008年02月18日 20:36   No.121002
++ 伝 (大学生)…71回       
昭和二十一年の三月頃から、被告人選定の会議が行われたらしいが、3月28日の第十二回会議で石原莞爾の名前があげられた。ところが、まちがって石原広一郎(石原産業代表)の報告が提出されて決定は延期。4月1日の第十三回会議でも、石原莞爾については、最終リストが決定される前に調査の報告ができるかもしれないとのことで決定延期。報告には、「民衆の声」と書かれた匿名のマッカーサー宛の投書が引用されていた。それには「石原は桜会と深い関係をもち、関東軍にいたが、日中戦争中、上海に転戦したのち一時帰国。41年11月フィリピンに渡り、バターンでの作戦を指揮し、のち、ルソンやレイテにも転戦した」と書かれていた。最終的に4月8日の参与検事会で、被告から除外されることになった。石原は日本人の間では満洲事変の実質的主役として有名だったが、連合国の検察側には、ほとんど知られていなかったのである。
石原が東京裁判の被告とならなかったことが不思議がられるが、東京裁判の訴因をみていみるならば、不思議ではない。55ある訴因のうちで満洲事変については、訴因2満洲支配を目的とする対中侵略戦争の共同謀議、訴因18 1931年9月18日頃の中華民国に対する侵略戦争の開始8満洲事変) 訴因27 1931年9月18日ないし945年9月2日の中華民国に対する侵略戦争の遂行 の3つだけであって、石原莞爾が該当するとしたら、訴因18だけである。しかし、9月18日の鉄道爆破については決定的証拠はないのだから、侵略戦争の戦端をひらいたとは言い得ない。満洲事変以後の石原莞爾の言動には侵略と非難すべき何物もないのである。およそ侵略とは反対のことを言っている。共同謀議の罪の着せようがないと思われる。

.. 2008年02月23日 20:22   No.121003
++ タク (部長)…205回       
昭和22年5月2日、酒田商工会議所を臨時の法廷として、極東軍事裁判の公判が行われました。訊問に先立って裁判長から、「何か言うことはないか」と問われたので石原莞爾は答えました。「ある。不思議にたえないことがある。満州事変の中心は、すべて自分にある。事変終末の錦州爆撃にしても、軍の満州建国立案者にしても皆自分である。それなのに自分を、戦犯として連行しないのは腑に落ちない。」と言っています。近衛文麿のように戦犯指定を免れるために怯えている人が数多いというのに、自らを「戦犯に指定しろ」と直談判した人物は、石原莞爾しかいないでしょう。石原莞爾にはこれ以外にも、大胆かつ横柄な受け答えで、法廷で質問に立った検事や、取材に訪れた外国人記者などをやり込めています。今大戦最大の戦犯は、「無差別空襲によって非戦闘員を大量虐殺した、アメリカ大統領のトルーマンだ」という発言は、その一例です。

また、「満州事変の根源は、日本の戦争責任を日清、日露戦争までさかのぼって調べる」と言うと、石原莞爾は次のように言う「それではペリーを呼んで来い、日本は当時徳川鎖国時代で、どこの国とも付き合いたくないと言って、堅く外交通商の門戸を閉ざしていた。それを米国からペリーが黒船でやってきて、門戸開放、通商交易を迫った。もし実行しなければ、大砲をぶっ放すと脅迫した。徳川政権は、結局米国の脅迫外交に屈して開国を決定し、列国と外交通商関係を結んだ。外国と付き合ってみると例外なく侵略主義の恐ろしい国だということを知らされた。それから貴国らを大先生として、日本は泥棒のような侵略主義を習い覚えたのだ。いわば貴国らの弟子である。もし日清、日露戦争が悪いというならばペリーを証人としてあの世から連れてくるのだな」と帝国主義の歴史をユーモアなど交えながら語り、米国への批判を行なったのです。短い言葉で、よく本質をとらえています。

昭和22年酒田市において石原莞爾の訊問が行われる事となりました。なぜ極東軍事裁判が、酒田市において行なわれたかというと、石原莞爾を東京で訊問すれば、東京裁判と連合軍側の権威の失墜を招くことを恐れがあったと思うのです。酒田法廷に出廷する石原莞爾をリヤカーで駅まで曳いた側近である私の父が当時の状況をこう語っているのです。歴史の本質的な部分を洞察していて興味深いところです。

.. 2008年02月24日 08:25   No.121004
++ 伝 (大学生)…72回       
リヤカーで駅までだったのですか。裁判所までリヤカーかと思っていました。といっても地理的なことは調べたことはないのですが。私は仲條さんとは一度だけ会ったことがあって、国柱会で石原莞爾平和思想研究会の会合があったとき、顔をだしたら酒田裁判のとき将軍の先導をしたのはこの人だよというような話だったか、わし(わたしだったか、自分だったかもしれませんが)が将軍の(乗った)リヤカーを引いたのだよということを聞きました。そのときは酒田の裁判についても、それほど知識がなかったから、リヤカーを引いたのが、そんなにエライ?ことかというように思って、話が展開することにはなりませんでした。今なら酒田裁判の様子を聞いたことでしょうが、その時はそれだけの智恵?がなかった。
.. 2008年02月24日 18:32   No.121005
++ タク (部長)…206回       
遊佐にいた時と鶴岡にいた時と酒田に呼び出されたのと鶴岡に呼び出されたのとごちゃごちゃになってしまって曖昧です。もう一度父の本を読んでみようと思います。国柱会では石原莞爾将軍をリヤカーで運んだ時と酒田裁判での出来事を講演したことがありました。その日はとてもお天気がよく国柱会に眠る宮沢賢治のお話もされていたのを何となく記憶しています。
.. 2008年02月26日 06:57   No.121006
++ 六 (高校生)…57回       
眠るときくと、「眠ってなんかいません」?という唄の文句が思いうかびます。関係ありませんが。ところで、石原莞爾が満州事変に突入したころ、宮沢賢治は東北砕石工場の仕事を会社として商売的に成立させるためだったか、東京に営業にでてきていました。これが昭和六年の9月19日らしい。無理してでてきたのか、東京で発熱して21日には遺言を書きます。結局2年後の同じ日になくなるわけですが、賢治という人は「すこしばかり仕事ができて、それに腰をかけているような、そんな多数をいちばんいやに思うのだ」というようなことを30歳くらいの頃に言っていたと思うのですが、彼の晩年にはずいぶん常識的になったけれども、精神は、とどまるところのなかった人のようです。
.. 2008年02月28日 22:14   No.121007
++ 伝 (大学生)…73回       
東京裁判における検察側の認識は、15年戦争の期間、日本の対内対外政策は犯罪的軍閥により支配せられかつ指導せられた。そして侵略国家による世界の他の部分の支配と搾取の獲得のための共同謀議が行われた。また人道に対する罪についての共同謀議が行われた。こういうことであった。記録を読んでいないが、それに対する証拠は(不適切な証拠が多かったようだが)いちおうあげられたらしい。(世界の他の部分の支配と搾取なんて、現代でも、それと気づかれないようにアメリカなどはやっているのでないか。)。石原莞爾に対して証拠をあげることは、むつかしかっただろうと思われる。
.. 2008年03月02日 16:57   No.121008
++ 六 (高校生)…58回       
あまり、いい加減なことを書いてはいけないので、調べてみたら、「告別」という題の春と修羅第二集の詩の文句で、「・・・・・なぜならおれは すこしぐらいの仕事ができて そいつに腰をかけてるやうな そんな多数をいちばんいやにおもふのだ・・・・」これは「いいかおまへはおれの弟子なのだ」と語りかけている詩の中の言葉ですから、一般的感想ではありません。横道の話ですが。
.. 2008年03月02日 19:39   No.121009
++ タク (部長)…207回       
日中戦争は満州事変も含め「15年戦争」と言われていますが、この呼び方は歴史的事実を正確にとらえているとは言い難いです。
日中が本格的に戦ったのは、盧溝橋事件から武漢陥落までの一年半弱で、その後は、各地方の重慶政府・蒋介石、南京政府・汪精衛、延安政府・毛沢東が、三つ巴の内戦を続けただけであるからです。このような真実が日本国民に伝わっていないと思います。

.. 2008年03月03日 08:12   No.121010
++ 伝 (大学生)…74回       
15年戦争ということばを安易につかったけれど、検察側はおそらく、このことばは使っていないと思います。というのは、張サクリンの爆殺事件からの期間を問題にしているからです。期間でいうと、18年でしょうか。満洲事変は、あくまで事変であって、正式の戦争ではない。検察側の主張に対する証拠は何でも採用したけれど、共同謀議否定の証拠は、ほとんど却下という偏頗な裁判だったけれど、検察側としての筋はとおっているところがあるかもしれない。
.. 2008年03月04日 20:45   No.121011
++ タク (部長)…208回       
それに対して、「放火犯の消火作業」だという佐高信先生の批判もある。この批判については後日、2人で食事をしている時に佐高信先生の口から「ちょっときついこと言っちゃって悪かった。石原莞爾平和思想研究会の方々は怒っていなかったな」と言っておられました。 昭和6年の満州事変から日米開戦、そして昭和20年8月15日の玉音放送までのプロセスが連鎖しているという史観からすれば、石原莞爾を免罪するわけにはいかないでしょう。つまり、満州事変というものを放火して後で、日華事件の拡大は消火しても、最初の罪が消えるわけではないという理屈でした。

.. 2008年03月05日 18:16   No.121012
++ 六 (高校生)…60回       
検察側は共同謀議の存在を立証しようとしたのであるが、次のようなことをはじめに言っている。「この共同謀議の分析に関する一つの困難は、その範囲が非常に広汎であったために、これが人間の一団によって行われたことを想像することは困難であろうということである」これにはまいってしまう。人間の一団によって行われたことを想像することが困難なら、被告の一団によってそれがなされたと想像することは、ますます困難なはずである。検察側にはそれが矛盾とは考えられなかったのであろうか。
それからこんなことも言っている。「たとえば現地軍人は、だれもたんに軍事作戦を行ったということでは訴追されていない。かれらが訴追されているのは、侵略計画の教唆、ならびにそれを実現させるのにあたっての活動のためである」このように説明したとき、あるいは石原莞爾が意識されていたかもしれない。満州事変を調べれば石原莞爾は戦犯候補?に当然浮上してくるからである。そこにおいて、石原莞爾を被告の一団に加えることはヤバイ?結果になるという判断がはたらいたことは充分考えられる。一方、石原莞爾が共同謀議に加わっていたということは、被告のなかでは最も証拠が出しにくい存在であったことは事実である。石原莞爾が東京裁判の被告にならなかった理由には二面ある。また万が一まちがいでマニラあたりにおくられて、まちがいで処刑されたということになれば、連合国の各国裁判がいかにいい加減なものかという大きな証明になる。石原莞爾にはふれないほうがよいと、考える人は判断する筈である。

.. 2008年03月19日 18:13   No.121013
++ タク (部長)…211回       
石原莞爾は山形県に戻っていた時、病が重く東京へ証言に行けなかったので、石原莞爾の調書をとるために、1947年5月1日と2日、(日付は父の日記に書かれている)酒田で特別軍事法廷が開かれました。国際軍事裁判所の50名以上の聴衆を前に、石原莞爾は満州事変と日中戦争における自分の役割について述べました。両事件について現在我々が知っていることからすれば、石原莞爾の証言記録の多くは不正確で、言い逃れのような印象を受けるが、法廷外では怒りにまかせて、誰はばかることなく刺のある発言を行ったのです。石原莞爾はトルーマン大統領こそ、一般市民に対して無差別爆撃を命じた本人で、起訴されるべきだと議論を挑んだ。父の書物によれば、日本の膨張主義を一世紀にも及ぶ西洋との闘争の文脈のなかに位置づけ、以下のようにアメリカ合衆国の検察官を攻撃したのです。

「なんだ、ペルリを知らないのか。君は貴国の歴史を知らないのか・・・。日本は当時徳川封建時代で、どこの国ともおつき合いをしたくない、といって堅く門戸を閉ざして鎖国主義をとっていた。それを、貴国からペルリが黒船に乗ってきて、門戸を開放しろ、もし開放しなければ大砲を打ちはなって日本をおどしつけ、門戸開放を迫り、列国との交わりを強要した。それで日本も門戸を開放して外国と交際をしてみると、列国はみな侵略主義の恐ろしい国と知ったのだ。それから自衛のために貴国らを大先生として日本は泥棒の侵略主義を習い覚えた。いわば弟子である。ペルリをあの世から呼んで来て戦犯としてはどうか」と。

.. 2008年03月20日 07:35   No.121014


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