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粟屋憲太郎の「東京裁判への道」を読んでいると、次のような箇所があった。「石原の調書を読むと、これまで石原の信奉者たちが語りついできたように、「なぜ自分を戦犯としないか」と検察官に迫ったというような毅然とした姿はみられない。」と。粟屋憲太郎は公平な学者と思われるので正直な感想であろう。しかし誤解を招く表現である。だいたい調書に石原莞爾の毅然とした姿をたとえあったとしても記録する筈がなかろう。誰が、「自分を戦犯としないかと検察官に迫った」ということを言っているのかしらないが、検察官にそんなことを言う筈がないと思う。酒田での裁判では、裁判長のノースクロフト判事に「満洲事変の中心は自分である。この私を戦犯としてひかれないのが不思議である」という意味のことを言ったと伝えられているが、これは言いそうなことである。だいたい満洲事変の当時は最大の功労者は責任者の本庄司令官になっていたと思う。その本庄司令官が全責任を自分に帰して自決しているのだから、その行為発言を無にするようなことは石原莞爾は言わない筈である。しかし満洲事変の中心は自分であるくらいのことは彼の人間性からして、言ってあたり前である。裁判になれば人間の位がちがうのだから、検事などを圧倒しても何の不思議もない。まあ、あまり言う必要もないことだが。
.. 2008年02月16日 20:27 No.121001
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