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天皇の戦争責任ということを言う人がある。ちょっと横道のそれたテーマだが、ついでに言っておこう。この言葉は朦朧とした表現である。天皇が戦争を主導した責任ということを言う人はないだろうから、天皇が開戦をとめなかった責任ということを言いたいのだろうか。これについては、昭和天皇が昭和五十年、ニューズウィーク誌のインタヴューで「・・・開戦のさいは閣議決定があり、私はその決定を覆すことはできなかった。これは日本の憲法に合致していると私は信じます」と言われている。ところが戦前の日本人は、いくら閣議決定があっても天皇が右向けとか左向けとか言えば大臣は聞くものだくらいに思っていたみたいですね。国政が天皇の意思でどうにでもなるということは、皇室のしきたりでなく、また明治憲法もそのようなことはみとめていないのです。しかし、閣議できめたことだから、天皇が何の意思も表明しなかったかというと、そうではないのです。9月6日の御前会議は異常な緊張のもとにおこなわれました。「日米戦争と戦後日本」(五百旗頭真著)によると、「しかし天皇は、木戸内大臣に対して御前会議開催の二十分前に、その日の会議では自ら質問したい、との意向を表明したのである。木戸内大臣は困った。」陛下のおこころは我々にはおよびもつかないが、われわれであれば思いあまって、二十分前になって言ったということかと想像される。同書からの引用をつづける「木戸は、天皇が御前会議でその種の発言をして軍部とやりあったらどうなるか、と心配した。軍部を抑えられるかもしれない、しかしそれは危険である。それは天皇が政治抗争の一方の当事者になることを意味する。神聖不可侵の権威を捨てて、地に降りて軍部ととっくみあいをすることになる。一度や二度は成功するかもしれない。しかしそれを始めれば、人間のやることだから間違うこともでてくる。そうなると、神聖にして不可侵の絶対の権威としてふるまうことはできなくなる。陸軍として許せぬ、耐え難いとなれば、陸軍が天皇から実力で権力を奪うことだってありうるだろう。天皇がそのような生身の当事者として降りてこないことこそが、天皇制の続く所以であると、と彼は考えていた。」木戸の考えについては、一次資料をしらべていないが、とにかく陛下の御意向には反対申し上げたのは事実だろう。そこで陛下は独断をさけて、御自身の質問はなさらなかった。しかし、この御前会議では統帥部を叱咤されることがあったそうである。これについては、よく調べてみたいと思っている。
.. 2006年08月01日 22:22 No.12001
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