返信


■--戦争責任
++ 伝六 (小学校低学年)…7回          

天皇の戦争責任ということを言う人がある。ちょっと横道のそれたテーマだが、ついでに言っておこう。この言葉は朦朧とした表現である。天皇が戦争を主導した責任ということを言う人はないだろうから、天皇が開戦をとめなかった責任ということを言いたいのだろうか。これについては、昭和天皇が昭和五十年、ニューズウィーク誌のインタヴューで「・・・開戦のさいは閣議決定があり、私はその決定を覆すことはできなかった。これは日本の憲法に合致していると私は信じます」と言われている。ところが戦前の日本人は、いくら閣議決定があっても天皇が右向けとか左向けとか言えば大臣は聞くものだくらいに思っていたみたいですね。国政が天皇の意思でどうにでもなるということは、皇室のしきたりでなく、また明治憲法もそのようなことはみとめていないのです。しかし、閣議できめたことだから、天皇が何の意思も表明しなかったかというと、そうではないのです。9月6日の御前会議は異常な緊張のもとにおこなわれました。「日米戦争と戦後日本」(五百旗頭真著)によると、「しかし天皇は、木戸内大臣に対して御前会議開催の二十分前に、その日の会議では自ら質問したい、との意向を表明したのである。木戸内大臣は困った。」陛下のおこころは我々にはおよびもつかないが、われわれであれば思いあまって、二十分前になって言ったということかと想像される。同書からの引用をつづける「木戸は、天皇が御前会議でその種の発言をして軍部とやりあったらどうなるか、と心配した。軍部を抑えられるかもしれない、しかしそれは危険である。それは天皇が政治抗争の一方の当事者になることを意味する。神聖不可侵の権威を捨てて、地に降りて軍部ととっくみあいをすることになる。一度や二度は成功するかもしれない。しかしそれを始めれば、人間のやることだから間違うこともでてくる。そうなると、神聖にして不可侵の絶対の権威としてふるまうことはできなくなる。陸軍として許せぬ、耐え難いとなれば、陸軍が天皇から実力で権力を奪うことだってありうるだろう。天皇がそのような生身の当事者として降りてこないことこそが、天皇制の続く所以であると、と彼は考えていた。」木戸の考えについては、一次資料をしらべていないが、とにかく陛下の御意向には反対申し上げたのは事実だろう。そこで陛下は独断をさけて、御自身の質問はなさらなかった。しかし、この御前会議では統帥部を叱咤されることがあったそうである。これについては、よく調べてみたいと思っている。
.. 2006年08月01日 22:22   No.12001

++ タク (小学校高学年)…20回       
戦前から戦後へ、8月15日を境に徹底的に破壊されたもの、形を変えて生き残ったものと、様々な変容が我々のまわりにはあるでしょう。その象徴的なものは天皇像でした。戦前の「現人神」から、戦後の人間天皇という象徴天皇となり、それは連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占拠方針によるものでありましたが、同時に、深くは日本人の文化と倫理と国家観に根ざす問題でもあったのです。

史上初の敗戦という事態をもたらした戦争責任との関連で、様々な天皇制論議がなされました。日本人の大多数は「国民統合」のよき「象徴」として天皇が、国民とともに歩まれることを歓迎したのです。その人間天皇にかわって、「神」として君臨したのが、GHQの総司令官ダグラス・マッカーサー元帥であったのです。東京の中心、宮城とお濠をへだてて向き合っている第一生命ビルの屋上に9月17日以来、星条旗が鮮やかに翻り続けました。この旗、マッカーサーの命ずるままに、民主主義となったのです。

ワシントンからの指令の第一の目的は、日本の「非軍事化」で、電撃的に処理されました。8月15日現在、日本本土に57個師団約257万名余の兵力を有し、陸海合わせて約1万6000機の航空機が残っていました。これらがおとなしく武器をすて、武装解除が完了したのは10月15日のことです。一発の発砲もなく、ただ1人の負傷者もなくこれが完了したというのは、世界中のだれの眼にも奇跡としかうつりませんでした。あの神風特攻隊がある日本軍が、あれだけソ連を苦しめて一度も負けなかった日本軍が何の抵抗をみせないとは。スターリンでさえこう洩らしたといいます。

.. 2006年08月02日 19:17   No.12002


▼返信フォームです▼
Name
Email
ホームページ    
メッセージ
( タグの使用不可 )
Forecolor
アイコン   ICON list   Password 修正・削除に使用