返信


■--近衛上奏文の謎
++ 六 (高校生)…51回          

近衛上奏文(昭和二十年二月)の中に、「軍部内一味の革新運動」について、「そもそも満洲事変、支那事変を起こし、之を拡大して遂に大東亜戦争にまで導き来れるは是等軍部内の意識的計画なりしこと今や明瞭なりと存じ候。満洲事変当時、彼らが事変の目的は国内革新にありと公言せるは有名なる事実に御座候。支那事変当時も「事変永引くがよろしく事変解決せば国内革新が出来なくなる」と公言せしは此の一味の中心人物に御座候」とあるが、この「中心人物」とは誰だと考えていたのだろう。当時の事情から、陛下に意味が伝われば、変化球を投げたことも考えられるが、自ら真実と確信することを上奏したはずだから、注意をひかれるのである。
.. 2008年01月14日 10:25   No.118001

++ タク (部長)…199回       
国際情勢を前にしたとき、日本政府は深いジレンマに対して、どのように対処したのでしょうか。国民が心から受け止められる戦争目的を、どのように設定していったのでしょうか。それについては、三谷太一郎氏による説明が一番明快ですので紹介します。三谷氏は、東京帝国大学行政学教授で近衛文麿のブレインでもあった蝋山政道の日中戦争観を分析することで、この問いに答えていきます。蝋山は、東亜新秩序という地域主義理論を考慮しました。そして、日中戦争が戦われなければならなかった理由を、次のように説明したのです。

日本の軍事力によって打破されなければならない二つの障害があったからである。一つは中国民族主義であり、一つは中国民族主義を利用し、そのためにこれと提携した西欧帝国主義である。東アジアの地域主義的な秩序原理に反対し、それを認めようとしないのが、中国の民主主義であり、それを後援する西欧の帝国主義だというのです。かつて、満州事変期においては、中国の国権回収運動や革命外交を支えていたものこそ、中国の民族主義であるとの認識が日本側にはありました。

つまり、その当時の日本にとって中国のナショナリズムが問題にされた理由は、それが、条約などの国際法、西欧的秩序の基本要素を中国が守らないとされたからでした。ところが、それから10年経った大東亜戦争の時期にあたって、中国のナショナリズムが問題とされた理由は、「西欧的秩序の基本要素の一つである主権的独立をもった民族国家」という形式に、中国が拘泥しているからというのです。中国を測定する日本側の軸が、明らかに変化しているのです。

.. 2008年01月15日 06:04   No.118002
++ おかけん (小学校低学年)…7回       
國民新聞に山口富永氏が『近衛上奏文と皇道派』を連載しております。まさにご指摘の”中心人物”とは誰か、を解明していくようであります。

.. 2008年02月03日 00:20   No.118003
++ おかけん (小学校低学年)…8回       
近衛上奏文中の”中心人物”について既刊の資料で調べるとすれば、
『大東亜戦争とスターリンの謀略』三田村武夫 著
『第二次世界大戦と日独伊三国同盟』平間洋一 著
がよろしいかと思います。
”中心人物”とは、尾崎秀實やゾルゲのコミンテルンに踊らされた、統制派の軍人です。昭和研究会や朝飯会のメンバーに多い。もっと広くいえば、愛国者の衣をまとった共産主義者達や革新官僚等も入る。
近衛上奏文中の”眼に見えない力”とは、コミンテルンの力・影響力の事です。

.. 2008年02月04日 00:03   No.118004
++ タク (部長)…203回       
相沢事件から二二六事件までの経緯を、陸軍の派閥対立から見た場合に、統制派と皇道派と見るのが普通です。一般的に永田鉄山に代表される統制派が、エリートを中心とし、近代化された国防国家の建設をめざし、官僚的であったのにたいして、皇道派は、陸大出身のエリートに反発をする隊付き将校を中心とし、農民・労働者に深い同情をもち、土着的であったとされています。

二・二六事件によって、皇道派が一掃された結果、統制派が軍の主導権を完全に把握した。と、すれば、統制派は、念願の国防国家建設に取り組まなければならなかったはずだったが、統制派のトップである永田鉄山亡きあと、あるべき国防国家の姿を描ける人材は、石原莞爾ただ一人しかいなかったのですね。

さらに、二二六事件後の粛軍が、軍首脳部の世代交代を促しました。事件の責任をとって、陸軍の川島をはじめとして、本庄侍従武官長、南関頭軍司令官、そして参議官の林銑十郎、安部信行、荒木貞夫、真崎甚三郎、寺内寿一、植田謙吉、西義一ら、現役の大将10人すべてが辞表を提出したのです。

.. 2008年02月04日 16:10   No.118005
++ マサ (小学校低学年)…8回       
近衛上奏文については最近にわかに話題に上がっている様ですね。おかけんくんのお話に追従する事になりますが、近衛は良く言えば非常にオープンな人間であり、首相時代も自分に対して陳情ないし助言する人間を拒むこと無く迎え入れた人物でした(優柔不断と言われればそうなんですけど)。そのようなこともあり、ブレーンを多く持つ人でもあった訳です。
ただ、その中にはソ連コミンテルンのスパイが多くいたようです。戦後、近衛のブレーンだった多くの学者が共産主義運動を展開して行ったことを見ても明白なのですが、取り上げると長くなるので割愛します。
ルーズベルトの側近にソ連コミンテルンのスパイがいた様に、これらはスターリンの常套手段でした。
当時はナチスの統制主義(国家社会主義)やマルクス・レーニン主義が流行した時代でしたが、どうもその時の日本の高官や高級軍人達には、統制主義と共産主義(マルクス・レーニン主義/スターリン主義)の区別がよく解っていなかったものが多かった様で、ゾルゲ事件に代表される様に利用されていた人間達ですら自分たちのポジションがこれらのどこにの分類されているか見えておらず、結果として自分ではソ連に加担するつもりではなく、共産主義運動という思想的背景を持っていたとしても、無意識にその代表的存在として認識していたソ連コミンテルンの思惑に嵌って行った様に見えます。
全部とは言えませんが国民党の前に瀕死の状態であった中国共産党を救ったのは盧溝橋事件に端を発した支那事変勃発であったわけですから、そこに作為的な臭いがすると言っても過言ではない様に思います。日本軍上層部のソ連に対しての異様な安心感(無防備)と広域戦線の拡大という愚策を安易に行った背景を司馬史観のみで捉えるのは乱暴すぎます。

.. 2008年02月08日 08:38   No.118006
++ タク (部長)…204回       
昭和39年中国を訪れた社会党の委員長だった佐々木更三氏が、「日本軍国主義が中国を侵略した」ことへの謝罪をしたところ、毛沢東は次のように答え、座は大いに盛り上がったといいます。「何も申し訳なく思う事はありません。日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらし、中国人民に権力を奪取させてくれました。皆さんの皇軍なしに我々が権力を奪取することは不可能だったのです」と。

東京裁判の最中に、当時中国共産党の副首席であった劉小奇が「盧溝橋事件(昭和12年7月7日深夜発生した銃撃を発端とした日中両軍の軍事衝突。これがきっかけで日本は大陸深く攻め入ることとなり、日本の侵略戦争のはじまりとされている)の仕掛け人はこの私だ」と発言しました。そのため戦犯として拘留中の河辺大将、牟田口中将が理由も告げられずに釈放されました。

盧溝橋事件の1ヵ月後の8月13日、コミンテルン派の張治中将軍は、蒋介石の命令に反して上海に73個師団、しかも精鋭部隊からなる40万人以上を投入して、全面的な戦争に発展した。これが世に言う上海事変です。昭和24年の中華人民共和国樹立宣言の際、周恩来首相は、「われわれ中共軍が日本軍と蒋介石軍の両方に銃弾を打ち込み、さらに日華協定を妨げたことが、中国共産党の今日の栄光をもたらした起因である」と言明しています。

中国軍の残虐な挑発行為。昭和12年の通州事変では、中国保安隊が行った無抵抗の日本人居留民に対する残虐な公開処刑に日本の世論は沸騰し、現地の日本軍は報復心に燃え、深く大陸への戦闘へと誘い込まれていきました。それは盧溝橋事件の3週間後、ラジオでデマを流布したことでした。現地の日本人385名のうち、幼児12名を含む23名が虐殺され、多数の女性は強姦されたあと陰部を銃剣で突かれ、えぐりとられ、首に縄をかけられ、引き回しにされたうえ、目玉をえぐられた者もいました。牛のように鼻に針金を通されたまま殺された子供や、生きたまま片腕を切断された老婆もいた。これらはすべて中国伝統の虐殺の作法なのです。

.. 2008年02月09日 18:30   No.118007


▼返信フォームです▼
Name
Email
ホームページ    
メッセージ
( タグの使用不可 )
Forecolor
アイコン   ICON list   Password 修正・削除に使用